とあるホテルの中、男と女がベッドで横になっていた。

 既に行為が終わった後だろうか。男は煙草をふかし、女はその男の胸に寄り添っている。

 突然男は手に持った煙草を枕元の灰皿に押し付ると、女に向かって言い捨てた。

「別れよう」

「え? 信彦さん、今なんて……」

「俺、結婚するんだ」

「え? そんな、そんなこと……嘘、嘘でしょう」

「来週式を上げる」

「来週って、相手は誰よ」

「秘書室の三上裕子だ」

「あの子、そうあの子なの……あたしとだけじゃなくって、あの子とも付き合ってたという訳。
でもどうして今になってそんな。裕子とは本気で、あたしとは遊びだったとでも言うの」

「……まあそんなところだ。だから美沙、お前とは今日で終わりにしよう」

「いや! あたし別れない。それにあたしのお腹の中には……」

「……おろせ」

「いや、絶対にいや」

 バシッ!

 信彦に殴りつけられた美沙は、その拍子にベッドから転げ落ちてしまった。

 お腹を押さえてうずくまる美沙。

「う、うううう、痛い……お腹……あたしの赤ちゃん……」

「ほら、これを使え、必ずおろすんだぞ」

 信彦はベッドから下りると服を着込み始めた。そして財布の中から札束を掴むと未だ床に蹲ったままの美沙に投げつける。

 ひらひらと舞う札束。

「いや、あたしおろさない。絶対におろさないから!」

 背中で叫ぶ美沙を一瞥もせず、信彦は黙って部屋から出て行った。

 扉の閉じた部屋の中では、お腹を押さえた美沙のすすり泣きだけが響いていた……。





クリニックYUKI U
「許さない・・・」

作:toshi9





 あれから5年が経った。

 彼は秘書室の裕子と結婚した。

 でもあたしは出産した。

 子供は女の子だった。

 あの日流産は免れたものの、不思議なことに赤ちゃんは眠ったまま生まれた。

 そして生まれて以来昏々と眠り続け、一度として目覚めることがない。

 あたしは3月に生まれた子供に弥生と名づけ、一人で育てた。

 あたしは弥生がぱっちりと目を開き、大きな泣き声を上げる日を待ち続けた。
でも5年経った今でも弥生が目覚める日は来ない。

 おかげで5歳を迎えようとする今も弥生の食事は流動食、そしてオムツを外すことが
できなかった。

 どうして、どうしてこんなことに。





 ある日のこと、ふとしたきっかけで、あたしはとあるカウンセリングを受けた。

 もう身も心も疲れ切っていたのだ。

 友達が紹介してくれたカウンセラーの先生はちょっと変わっていたけれど、あたしの話を
真剣に聞いてくれた。

 そしてあたしの話が全部終わった時、先生はあたしにあるものをくれた。

 それはペットボトルに入ったピンクの色をした飲み物だった。

「あなたは今でも彼のことを愛しているの?」

「あたしが愛しているのは弥生だけ。あいつのこと好きだったけれど、でもあたしは弥生を
こんな風にしたあいつのことを許さない」

「そう、じゃあ弥生ちゃんと一緒にその信彦とか言う男に会いなさい。そして会ったらこれを
信彦と弥生ちゃんの二人に一緒に飲ませるのよ」

「え? どういうことですか」

「あなた彼に復讐したいんでしょう。そして弥生ちゃんを目覚めさせたい」

「はい、弥生が本当に目覚めるのなら、あたしは何もいらない。そしてどんなことをしても育ててみせる。でもその事とこのジュースを弥生とあの人に飲ませることとどういう関係が」

「ふふふ、飲ませればわかるわ。二人に飲ませたらある事が起きるから、もし悩んだらその時にはこの手紙を開きなさい。それからあなたもそれを一緒に飲んでも良いけれど、一口だけで止めておきなさい。それ以上は決して飲んでは駄目よ」

 先生はさらさらと便箋に何事かを書き込むと、それを封筒に入れてあたしに手渡した。

「はあ」

 あたしにはますますこのカウンセラーの先生が何を考えているのか判らなくなった。

 それでも先生の言葉に一縷の望みを託したあたしは、受け取ったジュースを手に
そのクリニックを後にした。

「大丈夫、きっといいことがあるから」

 にっこりと微笑む先生。

 その笑顔を見ていたら、本当に何か良いことが起こるような、そんな気がしたのだ。

 そして疲れ切ったあたしにはもう先生の言葉にすがるしかなかった。






「先輩〜、大丈夫なんですかあ」

 美沙が帰った後、甘ったるい話し方をする助手は、少し不安そうにカウンセラーに声をかけた。

「ふふふ、心配?」

「だってアレって……」

「そうね、アレはここで使うようなものじゃないけれど、でも許せないじゃない。彼女をあんな目に合わせた男」

「そうですけどぉ、いいのかなぁ……」

「うふふふふ……」






 その日、あたしは久しぶりに彼を呼び出した。

 今も同じ会社で働いている彼。でもあたしたちが昔付き合っていたことは、会社では誰も知らない。

「何だよ、今頃」

「今晩付き合って欲しいの。ちょっとだけでいい」

「そんな義理ないぜ」

「今日は弥生の5つの誕生日。今夜だけでいい、弥生のことをあなたにお祝いして欲しいの。これが最後、もうあなたにつきまとったりしないから」

「弥生って、まさかあの時のお腹の……」

「そう。あなたの娘」

「俺の娘だと? 知らないね。おろせって言ったのに勝手に生みやがって」

「お願い。今夜だけでいいの、あの子に会ってあげて」

「いやだと言ったら」

「あたしと弥生のことを、会社中に言いふらしてやる。勿論秘書室にも。社長の耳にも入るかもしれないわね」

「ぐっ……仕方ない。今夜だけだぞ」






 その夜、彼はあたしのマンションに来た。

 あたしはベッドで眠ったままの弥生に真新しい白のネグリジェを着せてやった。

 すーすーと寝息を立てて眠り続ける弥生。

 眠り続けているせいか、同年代の子供に比べて成長が遅い弥生は年齢よりも小さく見える。

 そんな弥生を一瞥する信彦。

「寝ているのか」

「そう。生まれた時からずっと」

「そうか、そりゃあ気の毒にな」

 くっ、誰のせいでこんなことになったと‥。

「あの時あなたに殴られたから」

「俺のせいだって言うのか!」

「それはもう良いわ。さあ、乾杯しましょう」

 あたしは彼の目の前で先生にもらったピンク色のジュースをグラスに注ごうとした。 

 何? これ出てこない。

 そのジュースはグラスに注ごうとしても中から出てこようとしなかった。

 ジュースみたいなのに不思議。これってゼリーなの?

 あたしは無理やりペットボトルを押して、ようやくその中身をグラスに出した。

 あたしの分と弥生の分と、そして彼の分。

「さあ、乾杯しましょう」

「それ大丈夫なのか? お前、まさか毒でも仕込んでいるんじゃないだろうな」

「そんな訳ないじゃない。寝ている弥生にも飲み込めるように、ゼリー状にした特別なジュースなんだから。それにこれおいしいのよ」

 それは口から出まかせだったけれど、実は嚥下用の飲料なんていうものが本当にあるなんて知ったのはもう少し後のことだった。でも彼はそれで納得してくれたようだ。

 あたしはグラスに開けたその飲み物を一口だけ飲んだ。

 うん、本当においしいよ。

 もう一口飲もうとしたものの、「一口だけよ」と言った先生の言葉を思い出して危うく止めた。

「ほら、弥生ちゃん」

 弥生の口にジュースを注ぎ込む。味がわかるのか、いつもの流動食と違うそのジュースを弥生は眠ったままこくこくと飲み干していく。

「さあ、あなたもどうぞ」

「え? あ、ああ」

 信彦はジュースの入ったグラスに恐る恐る口をつけた。でも一口飲んだ瞬間その表情は
さっと驚きのものに変わった。そして彼はグラスの中身をごくごくと飲み干していく。

「うん、不思議な味だ。それに旨いじゃないか」

「うふっ、だから言ったじゃない」

「もう一杯あるのかな」

「まだ残っているけど」

「じゃあもう一杯……うっ、何だ?」

「え? なに? どうしたの」

 突然信彦が顔を抑えて苦しそうにテーブルにうつ伏せになった。

 その時弥生のほうも眠りながらうなされるように苦しみ始めていた。

「顔が、何だ、顔が……熱い」

「う〜、うう、う〜う〜」

 苦しんでいる二人の顔が変化していく。

 浅黒い信彦の顔がどんどんと赤くなっていった。

 そして弥生のほうもその青白い頬にぽっと赤味が差したかと思うと、みるみる顔全体が赤くなっていった。

「熱い、うお、熱い……顔が、顔が……うぐぐ、ぐあっ!」

 信彦が叫んだその瞬間、彼の顔の上から何かがずるりと剥がれようとするのが見えた。そして顔を押さえようとした信彦の両手の間から何だかねっとりしたものが漏れこぼれるようにテーブルの上に落ちた。

 眠ったまま唸り声を上げていた弥生の顔からも同じように何かがベッドの上にずるずるっとずり落ちていく。

「何? 何が起こって……」 

 その時、あたしの顔にも妙な疼きが湧き上がっていた。

「なに、この感じ」

 思わず顔を抑えたあたしの指にぐにゅっとした感触のものが触れた。

「顔が、あたしの顔がおかしい」

 あたしはパニックに陥りかけた。でもその疼きは少しの間だけで、徐々に治まっていった。顔の感触もいつの間にか普通の張りのあるものに戻っている。

「何だったの、あの感覚って」

 一方、二人の顔から剥がれたそのピンク色の物体は、テーブルの上とベッドの上でそれぞれ生き物のようにぴくぴくと蠢いていた。

 あたしはうつ伏せになったまま意識を失っている信彦の前のテーブルにあるものをじっと見た。

「え! うそ、こんなことって!」

 あたしがテーブルの上に見たもの、それは信彦の顔だった。その顔は何かを訴えるように口をぱくぱくさせている。

 なに、何なのよ、これ。

 恐る恐るうつ伏せになって動かない信彦の体を持ち上げると、顔の部分が何も無いのっぺらぼうになっていた。

「ひっ!」

 慌てて弥生のほうを見ると、ベッドの上にずり落ちた弥生の顔がすーすーと寝息を立てている。そして弥生の体のほうものっぺらぼうになったままじっと動かなかった。

 あたしはベッドの上にある弥生の顔を手に取ると、そっとテーブルの上に置いた。

「どういうことなの、これって」

 信じられないけれど、信彦と弥生、二人の顔が二人の体から剥がれてしまった。

 テーブルの上に並んだ二つの顔。

 あたしに何かを訴えかけようとしている信彦の顔と、すーすーと優しい寝息を立てている
弥生の顔。

 その二つの顔をじっと見つめているうちに、あたしの中にある恐ろしいインスピレーションが閃いた。

 でも……。

 悪魔のようなその閃きに、あたしの心臓はどくどくと高鳴っていった。でも、その時のあたしにはもうそれをやらずにはいられなくなっていた。

「先生の手紙にも、きっとこうしなさいって書かれてあるのよね」

 あたしは震える手でぷるぷるとしたピンク色の信彦の顔をテーブルから持ち上げると、それをのっぺらぼうになったベッドに横たわる弥生の顔の部分に被せてみた。そして信彦の体を床に仰向けに寝転がすと、その体には弥生の顔を被せた。

 しばらくすると、体に貼り付いたゼリー状だった二人の顔は徐々に赤味を無くし、普通の顔色に戻っていった。

 でもそれはさっきまでの元の顔じゃない。弥生の小さな体には信彦の顔が、そして信彦の逞しい体には弥生のかわいい顔がついていた。

 あのジュースって、何なの。それにあたし、どうしてこんなことをしたんだろう。

「う、うーん」

 やがて信彦の体から声が漏れ始める。

「あ、あれ、あたし……ママ」

「え? あたし? ママ?」

 あたしは戸惑った。顔は弥生の顔だが声は信彦の声。でもあたしに向かってママって?

「あたし、あたし弥生です」

「弥生って、そりゃあ顔はそうだけど、でもそんな」

「良くわからないけど、突然しゃべれるようになって。ちゃんと考えることができるようになって。あたし動かない体の中でずっとあたしのことを守ってくれたママのことを見ていたの。
でもあたしには何もできなくって……」

「弥生、本当に弥生なの」

「うん」

 あたしは、自分のことを弥生だと言う信彦に抱きついた。

 逞しい腕であたしを支える信彦。

 でもその顔はまぎれもなくあたしの弥生だった。





「う〜うう、う〜う〜う〜」

 その時突然ベッドの弥生の体が唸り声を上げ始めた。

 今まで眠り続けていた弥生の体が目覚めたのだ!

 はっとベッドのほうを見る。

 其処にいるのは顔が信彦の顔になったネグリジェ姿の小さな弥生。

 その顔はかっと目を開いて、何事かを訴えようとしていた。

 でも体がずっと眠り続けていたせいなのか、上手くしゃべることも体を動かすこともできないようだ。

 自分の体が弥生の体になったことに気がついた信彦の顔は、戸惑いと困惑に満ちていた。

「ふーん、あなた信彦なの?」

「う〜う〜」

 頷くように僅かに頭を動かし、再び唸り声を上げる弥生。

 そうか、そうなんだ。この弥生が信彦……ふーん。

 あたしの心の中に再び悪魔のような閃きが浮かぶ。

「ふふふ、信彦、あなたは弥生になったのよ。あなたはこれから弥生として、あたしの娘として生きていくの。何も喋れないでしょう。一人じゃ何もできないでしょう。弥生はあなたのために生まれてからずっとその苦しみを味わってきたのよ。
 これからはあなたがその苦しみを受ける番。食事だって一人ではできない。おしっこやうんちだって。でもあたしが、ママが面倒見てあげるから心配しないでね。お腹がすかないように食べさせてあげる。おしっこやうんちが出たらちゃんとオムツを換えてあげるからね」

「う〜、う〜うう〜」

 何かを言いたそうな信彦。

 ふふっ、いい気味。

「心配しないで。ずっと眠り続けていたから何もできないのよね。これからリハビリをしていけばきっとしゃべれるようになれるわ。そして体力がついてくればきっと体も動かせるようになる。それまでママが一生懸命リハビリさせてあげる。そして教育してあげるわ。女の子としての教育をね」

「う〜、うう、うが〜」

 必死に首を振って何かを訴えようとする信彦。

 そうだ、これからこいつはあたしの思うがまま。

 だってあたしが守ってやらなければ何も出来ないんだもの。

 うふふふ……。 





「先輩、ほんとに良かったんですかぁ」

「ふふっ、あのゼリージュースの力で必ず弥生ちゃんの意識は目覚める筈よ。それに信彦には動かない弥生ちゃんの体のリハビリをしてもらわなきゃね。そして完全に弥生ちゃんの体が回復したら、その時にもう一度アレを使えばいい。まあその前に二人がそれぞれの体に馴染んでしまうかもしれないけれど、信彦と弥生ちゃんを元に戻すかどうかは美沙さんと弥生ちゃんが決めればいいこと。彼に罰を与え、弥生ちゃんの意識を目覚めさせる。そして体のリハビリは彼にさせるという訳」

「一石三鳥ですね。先輩さすがですぅ〜」

「じゃあ摩耶、今日の仕事も終わったし、今夜どう?」

「はい先輩♪」

「さあて、明日はどんなお客様がくるかな。楽しみ、うふふふ……」




(了)




                                   2004年7月21日脱稿



後書き
 JuJuさん、HP開設おめでとうございます!
 投稿するのと違ってこれから何かと大変なことも多いと思いますが、息の長いサイトとなりますよう、どうぞがんばってください。

 さて今回の作品、お読みになるとわかります通り「ゼリージュース!外伝」の番外編で書きました「クリニックYUKI」の新しいエピソードです。ネタを思いついた後少し書いただけで放置していたものなんですが、書き加えて完成させたものです。まあ元ネタはもっと暗かったのですが、ちょっとだけ修正しました。

 それから今回のゼリージュースは勿論ピンクです。そしてカウンセラー(笑)の言うことを聞いて一口だけ飲んで止めた美沙は、危うく顔が剥がれ落ちるのを免れたという訳です。でも一度飲んでしまった彼女には、入れ替わった二人の顔がしっかり判るというわけです。まあそれが彼女のとって良かったのかどうかわかりませんが……。

 それではお読み頂きました皆様、どうもありがとうございました。







(エピローグ) 


 何だこの感触は、股の間がぬるぬるする。

 その気持ち悪さに目覚めた俺を、美沙が覗き込んでいた。

 慌てて起き上がろうとするが体が動かない。

 そうだ、俺は……。
 
「まあまあ弥生ちゃん、またおもらししちゃったのね。仕方ないわねぇ、オムツを取替えましょうか」

「俺は弥生じゃない。信彦だ。気持ち悪い。早く元の体に戻せ」

「あらあら、口だけは達者になっちゃって。でも女の子がそんな言葉使いしちゃあいけないわよ。『あたしは弥生よ。ママ、弥生のオムツを取り替えて』って言わなきゃ」

「そんなこと言えるか」

「まだ体が動かないんでしょう。自分じゃ何もできないくせに‥それじゃあオムツを取り替えるの止めようかな」

 自分がオムツをしているのも屈辱だが、この気持ち悪さ……いやだ。

「わ、わかった。言うよ、言います。あ、あたしは弥生です。ママ、弥生のオムツをどうか取り替えてください」

「よくできました。取り替えてあげるわよ、や・よ・い・ちゃん、あっははは」

(終わり)












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