夜には別の顔(前編)

作:Sato


「ただいまー」

 仕事から帰った私は扉を開けて中に入ると、軽いノリで声を掛けた。

「・・・」

 ところがどこからも返事がなかった。いつもだったら妻の紀恵の弾んだ声が聞こえてくるはずなのだが・・・

「紀恵、いないのか?」

 時刻は午後七時。買い物に出かけるにしては遅い時間だ。もちろん、まだ私が帰っていないのに寝るはずもない。

 もしかして紀恵は体調を崩したりなどして臥せっているのでは・・・私は急速に不安になって、紀恵と私の寝室へと向かった。こんなことは結婚して以来はじめてのことで、歩を進める私の足取りは重かった。

「紀恵?」

 寝室の中には灯かりも点いていなかったが、人の気配はあった。そのことは私をほっとさせるとともに、先ほどの懸念が現実のものになったのかと、私の不安も大きくなってきた。

「の、紀恵、大丈夫なのか?」

 ベッドの上で布団をかぶって横になっている紀恵に私は声を掛けた。私の声で目を覚ましたのか、布団の中で紀恵がもぞもぞと動いた。

「う、うーん・・・」

 紀恵がうめく声が聞こえた。声の雰囲気からして、体調が悪いということはなさそうで、私は心底ほっとさせられた。

 しばらく布団の中で左右に動いていた紀恵がようやく布団の中から顔を覗かせた。寝ぼけ眼でこちらを見た紀恵のその表情は、ぼうっとはしているものの普段と変わらず、私は心底ほっとさせられた。

「あ・・・れ・・・私寝ちゃって・・・?」

 むくりと上半身を持ち上げた紀恵を見て、私は言葉を失ってしまった。何故かといえば、紀恵が服を着ていなかったからだ。まだ二十代前半の若い紀恵のこと、十分な大きさをもちつつ、しっかりとした弾力を保っている見事な乳房が惜しげもなく晒されている。

しかし、いくら暖かくなったとはいえ、まだこの季節では裸で寝るなど考えられない。それに、暑いという理由なら布団をかぶって寝る、というのもおかしな話だ。

「きゃっ、私どうして裸なの!?」

 私の驚きの視線に気付いたのか、紀恵は自分の体を見下ろし、裸であることに気が付くと驚きの声をあげた。ということは、紀恵自身にも心当たりがないということになる。一体どういうことなのだろうか?

「とにかく起きてよ。もういい時間だから夕食にしないか」

「え、ええ。そうね。急いで準備しないと・・・」

 ベッドから足を下ろした紀恵を見て、私はまたも絶句してしまう。何と紀恵は上半身だけではなく、下半身にまでも何も纏っていない全裸の状態だったからだ。

「の、紀恵・・・」

「え?きゃあ!」

 夫婦の間柄なので、部屋を追い出されるということはなかったが、私もいづらくなって部屋から出てしまった。部屋を出る前によくよく見てみると、部屋の奥のほうに紀恵が着ていたのであろう服が散らかっているのが見受けられた。その適当という他はない脱ぎ捨てられ方一つ取って見ても、紀恵が寝ぼけてそんなことをしたのではないかと思うしかない。

「あの、恭治さん、ごめんなさい・・・」

 服を着て部屋を出てきた紀恵が私にそういった。しかし、何を謝ることがあるというのだろう?まさか眠っているうちに知らない男に――なんていうわけでもあるまいし・・・

「ん?何を謝ることがあるんだ?早く飯にしようぜ。話は落ち着いてからにしよう」

「え、ええ。すぐに準備するわ」

 私の言葉に勇気付けられたのか、紀恵は少し笑みを返すと、てきぱきと動きはじめた。真相のほどは分からないが、紀恵の心に負担は掛けたくはない。何があろうとも私は紀恵を信じて守り抜くだけだ。私はそう決心を固めていた。



「ごめんなさい。先に寝させてもらうね」

「ああ、ゆっくりと休めよ。明日は俺も休みだし、遅めでもいいから」

「うん、おやすみなさい」

 そういい残して紀恵は寝室へと消えていってしまった。夕食を済ませ、すぐに風呂に入った紀恵は、食器の後片付けもそこそこに「眠る」といいだしたのだ。先ほどの件もあり、反対する理由もない私は、彼女を送り出した。

 明日になればケロッとした姿を私の前に見せてくれるだろう。そうなればまた普通に二人の新婚生活に戻るさ。私は食器を洗いながら、明日の休みの過ごし方に思いを馳せていた。



 ――次の朝。目を覚ました時には、隣にいたはずの紀恵の姿がなかった。確かに私よりも先に眠ったのだから、早く起きる可能性がないわけではない。しかし、女性の例に漏れずに低血圧なのに加え、昨夜はあれだけ疲れていた様子だったのに、私よりも先に始動するのは妙な気がした。

「紀恵?」

 私は隣のリビングに向かって呼びかけた。それほど広くないこのマンションなら、これで十分に声は届くはずなのだが、紀恵からの返事はなかった。少し心配になってきた私は、ベッドから跳ね起き、寝室を出てリビングに入った。

「紀恵、いないのか?」

 ここまでくれば、この家中に声が聞こえているはずだ。それでも返事がないということは――私の心の中の不安は一層広がっていった。

「紀恵!返事をしてくれ!」

 私はダイニングを捜したが、紀恵の姿はなかった。ダイニングには熱気もまるでなく、食事の用意をしている様子も窺えない。不安がますます広がっていく。私は懸命に呼びかけた。

「・・・!?」

 耳の端で何か物音を感じたと思った私は、その方向を見た。そこはユニットバスのある場所。そうか、紀恵はシャワーを浴びているのか?しかし、そんな音は聞こえなかったが・・・

 とにもかくにも、私はそちらへと向かい、扉を開けた。

「な・・・紀恵!」

 バスルームへと突入した私の目に飛び込んできたのは、股間を大きく広げて便座に座り込んでいる紀恵の姿だった。しかも、私が入ってきたというのに何の反応も示さない。どうやら紀恵は眠っているようだった。

「紀恵!」

 私は紀恵の正面に回り込むと、紀恵の肩を揺り動かし、彼女を起こしにかかった。

「う・・・ん」

 昨夜と同じようなうめき方を見せると、紀恵はゆっくりとまぶたを開いた。自分の状態が分かっていないのか、私が目の前に立っていることに何の感情も示してはいない。

「あ、ああ。おはよう、恭治くん・・・」

「よかった、目を覚ましてくれたか・・・」

 紀恵は周りをきょろきょろと見回しはじめた。ようやく自分が昨夜床に就いた場所とは別のところにいることに気が付いたようだ。表情に怪訝なものが浮かぶ。

「あ・・・れ、私・・・?きゃああ!」

 ようやく自分が便座の上に下半身丸出しで座っていることに気付き、慌てて足を閉じて手で股間を押さえる紀恵。

「わ、私どうしてこんなところに?」

「俺にだって分からないよ。朝起きてみたら横にいるはずの君の姿がなくて、家中を捜したけど中々見付からなくって。それでようやくここで見つけたんだよ」

「・・・そう。と、とにかくここから出るから、恭治さんは先に出て・・・」

「あ、ああ」

 私はバスルームから出て、リビングのソファに腰を掛けた。

 とりあえず紀恵が無事でよかった。しかし、彼女は一体どうしてしまったというのだろう?夢遊病か何かなのだろうか?今までに紀恵にそんな出来事があった、という話は聞いたことがない。私との夫婦生活にそれほどストレスが溜まっていたのだろうか?そういえば、このところ仕事で遅くなることが多かったな・・・私も反省しなければ。

 それにしても、いずれも裸だったのはどういうことだ?トイレで下半身を晒すのは当たり前といえば当たり前だが。いずれにせよ、異常という他はない。平穏だったはずの私たちの夫婦生活に暗雲が立ち込めてきているのを認めざるを得なかった。



 その日は私も休みだったので、昼から私たちは気晴らしを兼ねて外へ遊びに行った。ちょうど見たかった映画もあったところだったので、いいタイミングだったのだ。

 それにしてもこうしてきちんと化粧をして着飾った紀恵の姿は美しい。家の中では当然化粧などしないのだが、それでもきれいなのはきれいだ。しかし、紀恵に限らずやはり余所行きの格好をしたときの女性はやっぱり美しい。

「どうしたの、早く行きましょう!」

「あ、ああ」

 実際、二人にはよい気晴らしになったようだ。紀恵も結婚前はモデルのような仕事をしていて、外を出歩くことが多かっただけに、主婦として一日中家にいるというのは、性に合わないのだろう。こうして外に出た時の紀恵は本当に生き生きして見える。

 私にとっても、こうして紀恵とデートするのは、普段の仕事で溜まったストレスを解消するには持ってこいなのだ。これからはもう少しこうやって遊びに出かけよう。あまりお金のかからない遊びなら、家計に負担をかけることもないだろうから。デートの終盤には私はそう考えるようになっていた。

「ただいま〜」

 夜になってようやく私たちは家に帰り着いた。食事も済ませてきたのであとは寝るだけだが、やはり紀恵に寝ることに対して強い不安があるらしく、ただ寝るだけだというのにえらく緊張した顔つきをしている。

「紀恵、心配ないよ。俺もある程度は起きて見ていてあげるから。そのためには紀恵に先に寝てもらわなくっちゃ」

「う、うん・・・じゃあ先に寝させてもらうわね。私が変なことしそうになったら止めて頂戴ね」

「ああ、もちろん。安心して寝てくれよ」

「うん、じゃあおやすみ」

 紀恵はそういうと、ようやく目を閉じた。昨夜からの精神的な疲労と今日の昼のデートによる肉体的な疲れが同時に襲い掛かってきたのだろう、あっという間に乱れ加減だった紀恵の呼吸も落ち着き、どうやら彼女は眠りに落ちたようだった。

「さて、ここからが勝負だな。寝てすぐにどうにかなるとは思えないけど・・・」

 しかし、原因が特定できていない以上、いつ何が起こっても不思議ではない。私は唯一見えている紀恵の顔を注視していた。今のところ、私が普段見ている紀恵そのものにしか見えない。

「ふわ・・・」

 時計の針は1時を指している。私も紀恵と同じ生活をしているのだ。体力面では勝っているとはいえ、そろそろ眠くなってきた。しかし、まだ何も掴めていない現状では、ここであきらめて寝てしまうことはできない。

「あ・・・!」

 私の上のまぶたと下のまぶたがくっつきかけた瞬間、突然身動き一つしていなかった紀恵の身体が大きく動きを見せたのだ。驚いた私の目は一気に冴え、紀恵の一挙手一投足に全ての神経を集中させながら見ていた。しかし、紀恵が動きを見せたのはその一瞬だけだった。紀恵は私の方から顔を背け、向こうを向いてしまった。

「な、何だ。寝返りを打っただけなのか?」

 どうやらそれだけの話らしい。それっきり紀恵は動きを見せはなしないし、呼吸も全くといっていいほど乱れていない。私は拍子抜けしたが、目が覚めたのは確かだ。私は引き続き紀恵の動きを監視していた。

 ――3時になった。さすがにそろそろ限界が近付いている。明日は休みというわけじゃない。こうなったら朝まで付き合ってやるか、そう思った矢先、事態が動きはじめた。

(後編に続く)
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