「おにいちゃん……」
「真帆、どうしたんだ?」
「あたし、トイレで寝ちゃったのかな?」
「お前、なかなか出てこないと思ったら、寝てたのか?」
「うん。でも何か変。控え室でお化けを見て、それから後の記憶がおぼろげなんだ。何だかあたしがあたしじゃなかったみたいなの」
「お化け? お前夢でも見てたんじゃないのか?」
「夢? あれって夢だったのか……あたしがおにいちゃんの……」

 突然真帆がカッと顔を赤らめた。

「どうした? 真帆」
「え? ううん?……なんでもない」
「ここのところ競技会が続いてるから疲れてるんだよ。今日はゆっくり休んで、明日のフリーもがんばるんだぞ」
「うん、そうだね。ありがとう、おにいちゃん!」

 自分の部屋に戻っていく真帆の後姿を見ながら、俺はそっと呟いていた。

「ごめんな真帆、1回だけでいい、俺はお前になってみたい」

 俺はゼリージュースの入ったペットボトルをぎゅっと握り締めた。

「がんばるのは俺なんだ。明日は俺が真帆だ、深田真帆として滑るんだ」




銀盤に舞う(後編)

作:toshi9




 翌日、真帆を競技会場のスケートリンクに送った俺は、真帆と別れてトイレに入ると、個室の中でどきどきしながらゼリージュースのキャップを開け、そして口をつけた。

……出てこない。

 ペットボトルに入った青い飲み物は、俺の口の中に入るのを拒否するかのように、ペットボトルから出てこようとしなかった。ペットボトルの胴体を押しつぶして無理やりゼリー状の中身を出すと、ようやくプルプルと口の中に入ってくる。

「ふはっ、これってほんとにゼリーなんだ。ふーん、ソーダミントの味がする。一気に飲むのはつらいけど……」

 ごくっごくっ

 何とか飲み干して昨日の緑川のように服を脱ごうとすると、セーターにかけた手が既に透き通り始めているのに気がついた。

「うひゃ! ほんとに体が透けている。……これ、本物だよ」

 飲み終えた瞬間に透き通り始めた俺の体は、服を全部脱ぎ捨てた頃にはすっかり透明になっていた。目をこらさないと、自分でも自分自身の姿が見えない。

「こりゃあ透明人間にでもなった気分だな。よし、ちょっと恥ずかしいけど、行くか」

 裸になった俺は掃除用具置き場に服を隠すと、トイレを出て真帆のいる選手控え室に向かった。
 身体が透明なので、人とすれ違っても誰も俺に気が付かない。
 だが通路を裸で歩くというのはちょっと恥ずかしい。
 それでも廊下の角を曲がって控え室の前に着くと、俺は恐る恐る扉を開けようとした。だが扉には内側から鍵がかけられていた。

「今日は鍵をかけているんだ。真帆が出てくるまで待つしかないか」

 そう思った矢先、突然扉が開いた。
 中から出てきたのはよく知った顔の、赤と黒の華麗な衣装に身を包んだグラマラスな美女だ。

「麗美さん!?」

 それは緑川麗美だった。
 彼女は緑川の姉さんで、24歳の女子フィギュアスケート界のエースだ。
 麗美さんはきょろきょろと辺りを見回して意味有りげににやりと笑うと、再び扉を閉めてしまった。
 だがその扉はきちんと閉じられずに少しだけ開いている。

「あの笑い方って緑川の野郎の笑い方と同じだな。……ってことは、あの麗美さんには既に緑川が潜りこんでいるということか」

 俺は開いたままの扉をそっと開くと、素早く部屋の中に入り込んだ。


 昨日は真帆一人しか残っていなかった部屋の中では、各々の衣装に着替え終えた女子選手たちが、ストレッチやお化粧をしながら出場の時間を待っていた。
 その間を縫うように、俺は真帆の姿を探した。
 それにしても、うーん、裸で女の子たちの間をうろつくというのは、こっちの姿が見えないとわかっていても緊張するぜ。

「真帆はっと、あ、いたいた」

 最終組の真帆は時間に余裕があるのか、まだ競技用の衣装に着替え終えていなかった。
 髪はポニーテールに結び直していたものの、白いスポーツブラとショーツの上から光沢のある白いタイツをはいただけの姿で、ハンガーに掛けられたレースをあしらった白い衣装を外そうとしていた。
 それは同じ白色でも昨日の清楚でシンプルなデザインのSP用の衣装とは違う、可憐で華やかなデザインのフリー用の衣装だ。

「今日だけでいいんだ、俺は『白い妖精』深田真帆を、お前を味わってみたい。ごめんよ真帆」

 念じるように呟くと、俺は隣の女子選手を避けながら真帆に近づき、背中からそっと両手を回して抱きついた。

「ひっ」

 真帆が一瞬小さな悲鳴を上げ、体をびくんと震わせる。
 透明のゼリー状になっている俺の体は、ずぶずぶと真帆の中に染み込み始めていた。

「は、入る!」

 それは何とも奇妙な感覚だった。
 俺の体は、あっという間に真帆の中に溶け込んでいった。
 そして頭も真帆の中に入った瞬間、一瞬視界が暗転したかと思うと、俺は真帆の白い衣装を手に持って立っていることに気が付いた。

「真帆ちゃん、どうしたの?」

 隣から大学生と思しき女子選手が怪訝そうに俺を覗き込む。
 ロッカーの鏡には、真帆と真帆の顔を覗き込む彼女の姿が映っていた。
 そう、覗き込まれているのは俺ではなく、衣装を持ったままぼーっとして立っている下着姿の真帆だった。
 
「やった、成功したんだ。これ……俺」
「え? 俺?」
「ううん、何でもありません」

 俺は慌てて答えた。

「真帆ちゃん、もしかして緊張してるの? 優勝がかかってるんだから当然よね。あたしが言うのもなんだけど、がんばってね」
「あ、ありがとうございます」

 俺の口からかわいい女の子の声が出てくる。
 俺は姿も声も真帆になっていた。

「俺が……真帆」

 改めて呟いてみる。
 俺の口からは再び女の子の声が、真帆の声が出てくる。
 一方で、心の奥で戸惑いのような感情が蠢くのを感じる。
 恐らくそれは真帆の意識なのだろう。
 だが自分の中の戸惑い押さえつけるようにイメージしてみると、心の奥の蠢きが止んだ。
 と、同時に真帆の記憶が俺の中に流れ込んでくる。

「そうだ、俺は、いいえあたしは真帆」

 自分が手に持っているのは、白い可憐なデザインの真帆のフリー用のコスチューム。

「今からこれを着て滑るんだ、これを着ていいんだ」

 真帆の為にデザインされた可憐な衣装。
 これを着て妖精のように滑る真帆が、競技会で難度の高い技を軽々とこなしていく真帆が羨ましかった。
 俺はジャンプするのも1回転半するのがやっとの三流スケーターだ。でも真帆は易々とトリプルアクセル、つまり3回転半のジャンプをしてしまう。
 真帆のように滑ってみたい、いや真帆になってみたい。
 それが叶えられない願いだとわかっていても、真帆が滑るのを見るたびに、いつしか俺はそんな思いにとらわれていた。

 でも今や俺の願いは叶えられた。
 俺は真帆になっている。
 これは俺の衣装なんだ。
 そうだ、俺が着てもいいんだ。

 頭の中で、滑る真帆の姿に俺の姿が重なっていく。
 俺はどきどきと心臓の鼓動を高まらせながら衣装を体に当てた。
 鏡の中では、衣装を身体に当てた真帆が恥ずかしそうに上目遣いにこちらを見返していた。

「ねえ真帆ちゃん、着替えたら付き合ってくれない?」

 突然誰かが肩をポンと叩く。
 驚いて振り返ると、そこには麗美さんが立っていた。
 そして俺のことを見透かしたように、その形の良い唇をにやっと歪ませている。

(間違いない。麗美さんじゃない。これは緑川悠太だ)

「最終組って言ってもあんまり時間が無いんだから、早く着替えちゃいなさい。試合が始まる前に一緒にウォーミングアップしましょう」
「は、はい」

 辺りでひそひそと声が漏れる。

「麗美さまのほうからお声をかけるなんて」
「なんかむかつくな」

 部屋の中に不穏な空気が流れる。
 女子選手たちにとって、世界選手権で金メダルを取った緑川麗美は雲の上の存在なのだろう。

 いつまでもここにいちゃいけない。

 俺は慌てて手に持った衣装に足を通すと、くいっと上半身に引き上げていった。そして腕をその袖に入れて、滑らかな生地の衣装を身体全体にフィットさせると、背中のファスナーを真帆の慣れた手つきでシャっと引き上げた。
 ミニのフレアスカートがついた白い衣装が、真帆になった俺の華奢な体にぴたりと密着する。
 鏡には、白い可憐な衣装に身を包んだ、人形のような真帆が映っていた。

「これが今の俺」

 まさに『白い妖精』と呼ぶに相応しいフィギュアスケートの衣装に身を包んだこのかわいい真帆が俺……。
 鏡に映る姿をじっと見詰めていると、胸の奥がどきどきしてくる。
 息が自然と荒くなってくる。
 俺が鏡に向かって笑うと、鏡の中の真帆がはにかむように笑った。

「真帆ちゃん、シューズも履いたら?」
「あ! は、はい」

 そうだ、シューズを履かなくっちゃ。

 麗美さんに促されて、シューズケースからエッジカバーのついた真帆の白いスケートシューズを取り出すと、俺は椅子に座って真帆の小さな足をシューズに差し込み、靴紐をぎゅっと縛った。
 ひやりとした椅子の感触に、今の自分がいつもと違う女子用の衣装を着ているんだということを実感させられる。
 そして靴紐を結びながら目に飛び込むのはタイツに包まれた真帆の太もも。
 両手ですっと両脚を膝から内太股を撫で上げると、ひんやりとした引き締まった真帆の脚の感触が伝わってくる。
 撫で上げた両手が脚の付け根で交差する。
 その下には男と違って抵抗のある突起が無い。
 スカートの上から重ねた両親指でそっとそこを撫でてみる。

 あふっ

「ま、真帆の……」

 も、もうちょっと

 ゆっくりと小指を動かす。

「あ……う……な、なんか……いい」

 指の動きにつれ、じわっと快感が湧きあがる。
 だがその行為は麗美さんの声に中断させられてしまった。

「真帆ちゃん、もういいの? ほら行くわよ」

 靴を履いて立ち上がった麗美さんがこっちを向いて笑っている。

「は、はい」

 かろうじて衝動を抑えて立ち上がると、俺は麗美さんの後について控え室を出た。
 だが 麗美さんが向かったのは、スケートリンクではなくシャワールームだった。

「真帆ちゃん、入って」

 麗美さんの後について俺が中に入るなり、麗美さんは後ろ手にドア鍵を閉めると、にやっと笑った。

「どうだ篤志、妹の真帆ちゃんになった気分は」

 麗美さんが急に男言葉になって話しかける。

「お前やっぱり緑川、緑川悠太なんだな」
「そうさ、俺さ。会場まで待ちきれなくて、家でアネキの体に入り込んでここに来たんだ」
「家から? ゼリージュースの効果ってそんなに長く持つのか?」
「今のところ体調は何ともないし、まあ大丈夫だろう。それよりお前のほうはどうなんだ? お前が入れなくて困ってるんじゃないかと思ってドアの鍵を開けたんだが、そしたら着替えてた真帆ちゃんの様子が急におかしくなったんで、あの時お前が真帆ちゃんの中に入ったって直感したんだ」
「ああ、扉を開けてもらって助かったよ。おかげでこうして無事真帆になれたぜ。まだ信じられないけど、俺は今間違いなく真帆として真帆の衣装を着て、真帆のシューズを履いているんだ。こんなことができるなんて、未だに信じられないよ」

 そう言いながら、俺はピラっとスカートを捲り上げた。

「ふふふ、これは間違いなく現実さ。まあせいぜい堪能するんだな。それにしてもお前に俺と同じ趣味があったとはな」

 そう言って、麗美さんはやれやれといった風情で両手を広げる。

「それより篤志、最終組が滑走するまで少し時間があるし、折角こうして女同士になったんだから、ここで二人で遊ばないか?」
「お、おい、ウォーミングアップするんじゃなかったのかよ」
「へへっ、ここでやるのさ。控え室で着替えているかわいい真帆ちゃんを見ているうちに、中身はお前なんだよなって思ったら何だかむらむらっときてさ。それにアネキのほうもどうやら真帆ちゃんに気があるみたいだし」
「ええ? 麗美さんが!?」
「そうよ真帆ちゃん」

 再び麗美さんの口調で答えると、麗美さんは妖し気に笑った。

「お、おい緑川……」
「ねえ真帆ちゃん、今からここで麗美と楽しいことしましょう」

 いきなり抱きつくと、麗美さんは俺の唇を自分の口で塞いだ。
 ぬるっとした麗美さんの舌が俺の口の中に強引に押し入ってきたかと思うと、俺の舌に絡み付いてくる。
 途端に体の中をびくっと電気が走るような快感が駆け抜けた。

「ん、んんん〜」

 口をつけたまま彼女より小柄な俺の、いや真帆の身体を包み込むように麗美さんが抱きしめる。
 二人しかいないシャワールーム、鏡には白い衣装の真帆と赤い衣装の麗美が抱き合う姿が映っていた。
 唐突に口付けされて戸惑ったものの、口から体中に広がっていく快感にいつしか俺は目をつぶり、無意識に麗美さんの身体に手を回していた。
 麗美さんの大きな胸が俺と麗美さんの間でくにゅっと潰れるのを感じる。

 き、気持ちいい。

 やがて麗美さんは満足した表情で唇を離した。

「ぷはぁ〜、なんて気持ちいいんだ。女同士で抱き合うっていいもんだな」
「はぁはぁ、お前、何を考えてるんだ。はぁはぁ、もうすぐ試合が始まるんだぞ」
「言っただろうウォーミングアップだって。それにまだ大丈夫だよ、もう少し、ね、真帆ちゃん」

 そう言って麗美さんは俺の腕を掴むと、ぎゅっと自分の胸元にたぐり寄せる。

 あっ!

「俺はかわいい真帆ちゃんを抱ける、そしてお前はアネキに抱かれる、それもお互い競技会用の衣装を着たままだ。今でなきゃこんなことできないだろう」

 再び麗美さんは俺を力強く抱くと、片手を俺の股間に伸ばし、衣装の上からソコを摩り始めた。

「あ、ああん」

 俺の口から真帆のため息が漏れる。
 痺れるような快感に意識が朦朧としてくる。

「うふふ、かわいい」
「あ、や、やめ……て」

 何度も摩られているうちに、下半身の奥から何かがじゅわっと出てくるのを感じる。

「だ、だめ、麗美さん、衣装が汚れちゃう……え?」

 朦朧としていく意識の中、俺の口から突然俺の意志とは全く別の言葉が漏れた。
 これ、真帆なのか? 
 そうか、俺の意識が無くなると真帆の意識が出てくるんだ。
 そう気づいた俺は、慌てて麗美さんを突き放した。

「はぁはぁはぁ、ほ、ほんとに時間がないぞ、これ以上はやめようぜ」
「そうか、残念だけど仕方ないか。じゃあ行きましょう、真帆ちゃん」

 麗美さんは再び妖艶に笑うと、一人シャワールームを出て行った。
 心臓がまだどきどきと高鳴っている。
 残された俺は、膨らんだ自分の胸をそっと押さえながら、心の中で真帆に謝っていた。

(真帆、許せ)




 シャワールームを出て少し急ぎ足でリンクに向かう。
 と、俺の姿を見つけた母さんが駆け寄ってきた。

(か、かあさん!)
「真帆、どこに行ってたの? もうすぐ最終組の番になるわよ」
「あ、あの、何か緊張して、急にトイレに行きたくなっちゃって」
「まあ、今までそんなことなかったのに」

 そう言いながら、母さんは俺の肩をポンポンと叩く。

「真帆、大丈夫?」

 こくりと頷く。

「よし、じゃあ行きましょう」

 そう言うと、母さんは俺をリンクのエプロンに引っ張っていった。
 まさか中身が俺だとも知らずに。




 リンクに着くと競技会は既に始まっていて、下位の組から一人、また一人と演技が行われていた。
 最終組に近くなると、リンクで滑る女子選手は難度の高い技を次々に決めていく。
 彼女たち演技を見ているうちに、俺の体はぶるぶると震えていた。
 ほんとにこれでよかったんだろうか?
 本当にこんな大観衆の前で俺に演技ができるのか?

「真帆、どうしたの? いつも通りに滑ればどうってことないわよ。あたしが育てたあなたが一番上手なんだから」
 
 震える俺の小さい手を、母さんが隣からぎゅっと握る。

「う、うん」

 確かに真帆ならこれまでに滑ったどんな選手よりも難しい技を軽々とこなせるだろう。
 でも俺にそれができるのか?
 いや、今の俺は真帆なんだ。真帆にできることは、今の俺ならできる筈だ。
 大丈夫だ。そう信じるんだ。
 俺は不安を払拭するかのように自分に言い聞かせた。




 やがて競技会も最終組6人を残すのみとなった。
 全員がリンクに滑り出て、演技前の最後の練習が始まる。
 俺もエッジカバーを外すと、氷上に躍り出た。
 すーっと自然に足が動く。

 いける!

 俺の滑りは普段のぎこちない自分のものではなく、真帆のものだった。

「真帆ちゃ〜ん」
「麗美さま〜」

 俺と麗美さんが同時にリンクに上がると、会場は一段と大きな歓声に包まれる。
 そう、俺たち二人は間違いなく今日の主役だ。
 でも中身が別人だなんて、今ここで滑っているのは実は俺と緑川悠太だなんて、誰も信じないだろうな。
 スピードを上げるにつれてさわさわと脚に触れるスカートの裾の感触を感じながら、俺はくすっと笑いを漏らす。

「真帆ちゃん、かわいい〜」

 笑った俺に、観客の声援がさらに大きくなる。

「真帆ちゃん、勝負よ」

 横を滑りぬける麗美さんの声が通り過ぎていく。

 あいつ、すっかりなりきってるな。よし、俺だって!




 いよいよ最終組の滑走がスタートした。
 一人、また一人と演技を終え、その得点が電光掲示板に掲示されていく。
 そして残るはSP2位と1位の緑川麗美と深田真帆、即ち俺たち二人の演技を残すだけになった。

 『女子フィギュア界のエース・緑川麗美』と『白い妖精・深田真帆』のどちらが高得点を挙げるのか。
 先にリンクに出てきたのは緑川麗美。
 観客は固唾を呑んで、エッジを立ててリンクの中央に静止した緑川麗美の演技が始まるのを待つ。
 ストラビンスキーの「火の鳥」のメロディーが場内に流れ始める。
 麗美さんがゆっくりと滑り出し徐々にスピードを上げていく。
 そしてジャンプ。
 最初にプログラムされたトリプルアクセルだ。
 だが回りきれずに転倒。
 余裕のあった麗美さんの表情が戸惑いに変わる。
 その後のコンビネーションジャンプもスパイラルもうまくいかない。
 その滑りは、全く麗美さんらしくないものだった。
 かといって悠太の滑りとも違う。
 麗美さんの顔に焦りの表情が浮かぶ。

「緑川の奴どうしたんだ、麗美さんに成りきって演技できるんじゃなかったのか?」

 やがて4分の演技時間が過ぎ、麗美さんは再びリンク上で静止した。
 しかしその顔はうな垂れ、会場内にも唖然とした空気が漂う。

「篤志、失敗だ、俺は逃げる」

 リンクから上がった麗美さんはすれ違い様にそう言うと、得点が出るのを待たずに控え室に飛び込んでいった。

「お、おい、緑川、待て! 俺はどうなるんだよ!」

 あいつどうして失敗したんだ。これじゃあ何がなんだかわからないじゃないか。

「深田さん、お願いします」

 混乱する俺に向かって、係員がリンクに上がるように促す。

 落ち着け、今の俺は真帆、そうだ、俺は真帆、真帆

 今から演じる真帆のフリーのプログラムに集中する。
 プログラムの流れが頭の中に描き出される。

「よし!」

 俺はリンクに滑り出た。
 場内が大歓声に包まれる。
 緑川麗美の無残な演技に、深田真帆の優勝を確信した観衆の声援だ。
 俺は真帆になりきってスタートのポーズを取ると、音楽が始まるのを待った。
 ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」が場内に流れ始まる。
 その軽快なリズムに乗ってエッジを蹴り滑り始めた俺は、滑走のスピードを上げる。
 そしてくるりと回転して体勢を整えると、そこからトリプルサルコとトリプルルッツの3回転の連続ジャンプ。
 それは普段の俺にはとてもできない技だが、真帆は軽々とこなしている。だから真帆になった今の俺にとっても、さほど難しい技ではない筈だ。
 真帆の記憶に従ってジャンプする。
 軽やかに飛び上がる。

 よし、いける!

 空中で回転しながら俺はそう思った。
 だが着地のタイミングが合わない。
 バランスを崩した俺は、大きく尻餅をついていた。

 ああ〜

 観客から大きなため息がこぼれる。

「焦るな、落ち着け、落ち着け」

 そう呟きながら起き上がった俺は、再び滑り出す。
 だがその後もタイミングを修正することができない。
 乱れるスピン、揺れるスパイラル、どの技もうまく演じることができない
 プログラム中盤に入っている真帆得意のトリプルアクセルも再び着地に失敗し、尻もちをついてしまった。
 普段の真帆では考えられない演技に、観客からどよめきともため息ともとれない声が上がる。

 どうしたんだ!?

 真帆の演技構成はしっかり覚えているのに、頭ではわかっているのにタイミングが微妙に合わない。

 いけない、これじゃあ。

 だが焦れば焦るほど、演技はばらばらになっていった。
 そしてようやく4分が終了する。
 ジャンプもスピンもいつもの真帆からは考えられない出来だった。

 惨めだ。

 観客はしーんと静まり返っていた。

 くっ!

 俺は逃げるようにリンクから上がると、控え室に逃げ込もうとした。
 だが俺の腕はリンクのエプロンでしっかりと掴まれ、静止させられていた。

「真帆!」

 腕を掴んだのは母さんだった。
 母さんは俺をじっと見詰める。

「いったいどうしたの?」
「ご、ごめんなさい」
「真帆、あたしに謝ってどうするの。上手く演技できなかった自分を恥じなさい。応援してくれた観客に謝りなさい。いくら出来が悪かったからって逃げるのは最低よ。ちゃんと自分の得点を自分の目に焼き付けなさい」
「う、うん」

 結局、俺は母さんと共に、得点が掲示されるのを待った。
 そして表示された得点は当然ながら技術点、構成点ともにひどいものだった。

「こういうときもあるわよ。でもこのくやしさを忘れないこと。もう二度とこんな思いをしないようにね」

 母さんは怒るでもなく、俺をこんこんと諭した。
 俺は呆然とその言葉を聞いていた。
 心の中からすすり泣きが聞こえる。
 真帆が泣いていた。

 ごめん、真帆……

 SPで1位と2位だった真帆と麗美さんは、結局7位と9位に沈んでいた。




 俺は母さんと別れると、控え室に飛び込んだ。

「おい緑川、どういうことだ!」

 既に紺色のパンツスーツに着替え終えて椅子にしゃがみ込んだまま呆けている麗美さんに向かって俺は怒鳴った。

「……わからない」

 ぼーっと麗美さんが答える。

「わからないって、おい!」
「完璧に演技できるつもりだった。だけどタイミングが合わないんだ」
「俺もそうだった。何故なんだ? おかげで真帆は優勝し損なった。満足な演技をしてあげられなくって真帆に申し訳ないんだ。これって結局俺が下手だったからなのか?」
「違うよ。俺は2回目だから体を動かすコツはわかったし、アネキの動きだって完全にトレースできた。それなのに演技は失敗してしまったんだ。考えられるとしたら、多分……二人分だからだろう」
「二人分?」
「今の俺の身体はアネキの体と俺の体が重なっている状態、つまり二人分なんだ。お前もそうさ。だからアネキや真帆ちゃんの感覚で滑っても、タイミングが合わないんだろう。滑り込んで修正すれば、もう少し何とかなったなもしれないが、アネキの体でほとんど練習できなかったからな。くそ、うっかりしてたぜ」
「二人分……ねえ」

 わかったような、わからないような説明だったが、とにかく練習で鍛えた精密機械のような真帆の演技を今の俺がやろうとしても無理だということだけはわかった。

「で、これからどうするんだ?」
「早いとこ元に戻ろう。ゼリージュースを体から出せば、つまり昨日の俺みたいにトイレで用を足せば元に戻れる。でもここじゃまずい」
「まずいって?」
「馬鹿! この体から抜け出たら俺たちは裸だぞ! 裸のまま女子トイレから出るつもりかよ!!」
「あ! そりゃあまずいな」
「とにかくお前は真帆ちゃんに成りすましたまま家に戻るんだ。そして家のトイレを使うんだな」
「俺の服が男子トイレに隠してあるんだが」
「今日はあきらめろ。もよおさないうちに、早く帰ったほうがいい」
「このままトイレに入るのか?」
「女の子としておしっこするのもいい経験だろう」
「おしっこ……ねえ」

 真帆や麗美さんがしゃがんでおしっこする姿を想像して、俺は顔を赤らめた。

「明日部活で会おう。ぐずぐずしてるとマスコミの取材攻めに遭いそうだから、俺は逃げる。お前も急いだほうがいいぞ。じゃあな」

 麗美さんは立ち上がってそう言い残すと、そのまま控え室から出て行った。
 残った俺は、真帆の服に着替えると、出口で待ち構えていたマスコミを何とか振り切って家に帰った。

「ふう〜、何とかたどり着いたぜ」

 家の玄関を閉め、安堵のため息を漏らした俺は それと同時にぶるっと下半身が震わせた。
 緊張感が解けたせいか、急にもよおしてきたのだ。
 早速トイレに入る。
 女の子のおしっこのやり方は真帆の記憶から戸惑うことはなかったが、それでも真帆としておしっこするというのは、何とも気恥ずかしい。
 ミニスカートの中に手を入れ、ストッキングと一緒にショーツを下ろして便座にしゃがみ込むと、力む間もなく俺の股間からしゃーっとおしっこがほとばしり出てきた。

「ふぅ〜いい気持ちだ」

 排泄の開放感は男も女も同じだ。
 膀胱に溜まっていたおしっこが全て出終わると、トイレットペーパーを引き出して、濡れた股間を拭く。
 程なく全身がむすむすしてくる。
 そして気が付くと、狭いトイレの中で、俺は便座に座ったまま眠っている真帆の前に立っていた。
 慌ててトイレから出て服を着る。
 その後しばらくすると、真帆がトイレから出てきた。

「おにいちゃん、あたし今日もトイレで寝ちゃったの?」
「お、お前、また寝てたのか。ま、まあやっと競技会も終わったし、しばらく練習を休んだほうがいいんじゃないか?」
「ううん、休んでなんかいられない。なんで今日はあんな演技しかできなかったんだろう……くやしい」
「お前、今日の演技のことを覚えて、いや気にしてるのか?」
「うん。控え室で着替えてたら急に訳が分からなくなっちゃって。本当はすっごく緊張しちゃってたのかも。自分でなにしゃべっているのかもわかんなくなって、体も思うように動かなくなって、挙句にあんな演技しかできなかったなんて」

 ぽたっと、真帆の目から涙がこぼれる。

「ま、真帆……俺……」
「あたし、スケートが好きなの。この気持ちだけは誰にも負けないと思ってた。なのに……ほんとあたしって最低。でも大丈夫、もう二度とあんな演技はしない。もっともっとがんばらなくっちゃね」

 涙目を手でこすりながら笑う真帆。
 めげてない真帆に俺はほっと安堵のため息を漏らした。

(真帆、ほんとにごめんよ)

 俺は心の中でただ謝るしかなかった。
 真帆になって最終組で滑れたらとずっと思ってた。
 でもそれは間違ってたのかもしれない。
 あの不思議なゼリージュースのおかげで叶えることはできたけれど、もう2度と真帆になりたいなどと願うまい。
 俺は固く誓っていた。





 翌日の部活、リンクで滑り始めた俺は、今まで何度チャレンジしてもできなかったダブルアクセルや高速スピンが楽々とできるようになっていた。
 何の躊躇もなく体が動く。
 ジャンプやスピンをする自分のイメージを描ける。そしてそのイメージ通りに体が動くのだ。

「これって真帆になったおかげなのか!?」

 ダブルアクセルを再びピタリと決めることができた時、言いようのない爽快感が体を包む。
 と同時に、親父に言われるまま惰性で続けていたフィギュアスケートを好きになっている自分に気が付いた。

「この気持ち、これって真帆と同じ気持ちだ。そうだ、俺だってフィギュアが好きなんだ。真帆、俺ももう少しがんばってみるよ」

 今更オリンピックを目指すなんて無理かもしれない。
 でももっと上手くなって、せめて大学選手権の最終組で滑れるようになってやる。
 俺は心の中でそう決心していた。




「おい、篤志」
「緑川か」

 エプロンで休憩している俺の元に、緑川がにこにこと笑いながら近寄ってきた。
 だがその左目の下が殴られたように青く腫れている。

「昨日はすまなかったな」
「俺は大丈夫だ。でも真帆に悪いことしたよ。ところでお前、その顔どうしたんだ」
「これか?」

 緑川が腫れた目元をさする。

「家に帰ってトイレの中でアネキから抜け出たんだが、俺がトイレから出る前にアネキの目が覚めちまって、ぼこぼこにぶん殴られちまった」
「トイレの中で麗美さんと二人……お前は裸で……」

 そりゃそうだよなあ。
 苦笑する俺の前で、緑川はカバンから何やら取り出した。

「それより篤志、今日はこれを手に入れてきたんだが、どうだ、今度はあいつらになってみないか?」

 リンクで滑る女子部員を目で追う緑川の手には、深い青色をしたゼリージュースが握られていた。




「懲りないやつ」





(了)

                                    2007年3月21日 脱稿


後書き
 4周年記念で書いた久しぶりのゼリージュース作品、如何でしたでしょうか。初めて書いた私の空色のゼリージュースのお話は、他の方の作品が憑依された女性の側から描かれることが多かったのに対して、憑依した側から書いてみました。でも何だか青のゼリージュースのお話とほとんど変わらないですね(苦笑
 それはともかく、限られた時間の中、何とかフィギュアスケートの世界選手権・女子のフリーには間に合ったようです。みんながんばれ!
 ということで、最後までお読みいただきました皆様、どうもありがとうございました。
  toshi9より感謝の気持ちを込めて。


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