North Valentine

作:夏目彩香(2001年2月14日初公開)


 


1.北の地に

俺は彼女と旅行のためここ小樽にやって来た。彼女の名前は佐山美雨。俺と一緒に大学に通ってた頃は大学のミスコンで選ばれたくらいの美人で、その時に知り合ってもう3年になる。仕事にも慣れて来ているが仕事で辛いことにもあっているので、気分転換も必要だと思っていた。

ちょうど休みを取るにもいい時期だったので、思い切って美雨と旅行に行くことにした。話をしているうちに美雨が北海道がいいと言い出した。冬の北海道は寒いイメージが強いので諦めようとしたが、美雨が言ってきかなかったため、結局来ることになったのだ。来てみてびっくりすることはたくさんあったが、思っていた以上にここは寒かった。今年はどうやら地元の人も寒いと感じるくらいの寒波が到来しているらしい。

ここ小樽には昨日の夜から滞在している。夕方まで札幌にいてから、JRで小樽まで快速を使って移動した。車窓から40分間外を見ていたが、そこに広がっていた景色は、どんよりとした灰色の空と雪で覆われた白い大地、それに加えて荒れ狂う青白い海の光景は、今まで見たことないくらいに強烈なイメージを持たせてくれる。小樽という街について詳しいことはまだわからないので、とりあえずホテルにチェックインしてそのまま部屋で夜を過ごしていた。今日は一緒に小樽観光をしようと美雨と話をしながら一夜はふけていった。

目が覚めると彼女は先に起きていた。彼女の方が先に起きるってことはとても珍しい。今までも何度か旅行に行く事があったが、いずれも俺の方が先に目覚めている。今回の北海道旅行は美雨にとってとても楽しみなことだったのだろうか。だから、少しでも準備万端にしておきたいのだろう。

ベッドからむくっと起き上がると、シャワーの音が聞こえてくる。ということは美雨はどうやらシャワーを浴びているらしい。部屋の時計を見てみると7時となっているが、枕もとに置いた俺の時計では6時50分を指している。いつもだと俺がまだ起きていない時間だが、美雨はもっと早く起きているので、俺も起きることにした。早めに朝食を摂って1日を有意義に使いたいと思ったからだ。

俺は美雨が寝ていた左側に目をやった。そこには俺があげた婚約指輪が置かれている。いつも身につけているのに、シャワーの時は外しているだけだろうか。それとも、俺に対する嫌がらせをしているのか。俺は指輪を持ってバスルームに向かった。

バスルームにはもちろん鍵がかかっているはずだったが、ドアノブは簡単に回すことができた。美雨の性格はもっと几帳面な筈なのに、旅行に出て慌てているのだろうか。俺のことを信用してくれているのだろうか。朝から考え事ばかりしている俺が美雨に声をかけてやった。美雨はすぐに返事を返してくれない、カーテンの向こう側にいるのは気づいているはずなのに、俺のことを気にも留めてくれないようだ。

カーテン越しに名前を何度か呼ぶとようやく返事をしてくれた。でも、シャワーが終わるまでは部屋で待ってろとのこと。ドアが開いていても普通は入ってこないものだと怒られてしまった。部屋に戻った俺はぼんやりとしながらテレビをつけてみるが、普段は見たことのないチャンネル名が並んでいる。どれがどれだかよくわからないので、適当に選んでは見ることにした。


2.小樽運河

テレビを見ている間に、美雨がバスルームから出てきた。下着だけを身に着けているのが朝から少し色っぽさを感じさせてくれる。シャワーの匂いがいつもと違って甘い香りを漂わせている。俺が見ている中、美雨は着替えをはじめている。今回の旅行ではいつもよりも地味な服装が多かった美雨だったが、今日のは普段見せるような服装になっていた。外では雪が積もっているんだから、寒くないのか心配な感じにコーディネートされていた。さすがに生足ということはないから、大丈夫なんだろうなと思っていた。

この服装って俺が美雨と大学に通っていたころによく着ていたものだとわかった。なんとなくだけど、あの頃より大人っぽく見える。美雨は丈の短めの黒いワンピースと黒いストッキングという、黒一色のコーディネートをしていた。白い雪の中にいても見つけることは簡単な感じがする。着替えが終わった後で、化粧をはじめた美雨は俺に向かっても観光に出かける準備をするように言った。ちょっとぶっきらぼうだったけど、美雨の言うことにはすんなりと聞いてやった。

美雨の支度も終わり、俺たちは一緒に外へと繰り出した。美雨はこんな雪の上を黒いブーツで歩きだす。転ばないように慎重に俺たちは歩き始めた。それにしても今日の美雨はいつもより大人の雰囲気を醸し出している。それはまるでいつもの美雨ではないかと思うくらいに感じてしまう。いつもよりも横顔が力強く見える。

ホテルの前に小樽運河があるので、最初の目的地にはあっさりと着いてしまった。今日は二人の行いがいいせいもあってか、すっきりとした青空が広がっていた。太陽が眩しいくらいに輝いているので、暖かい日になるかと思ったが、ものすごく寒かった。あとでわかったことだが、放射冷却現象によって冷え込むそうだ。しかし、その放射冷却現象なんてものは俺にはわかっちゃいない。

運河というから、イタリアにあるような小船が橋渡しをしているイメージをしてみたが、目の前にあったのは、整備された思ったよりもきれいなどぶだった。汚れているようにも見えるが、匂いはほとんどない。これが小樽運河の正体だったとは、ちょっとだけがっかりした。美雨は俺から離れて、観光地にはどこにでもいる写真屋と話をしていた。なぜか妙に盛り上がっているようだ。

美雨は俺の方に戻ってくるなり、写真を撮ってもらおうといいだす。俺はあんな写真は高いから撮らないと言ったのだが、そんなことはお構いなしにシャッターを切られてしまった。もったいないことをしたなぁと思っていると、どうやら写真屋から美雨へのプレゼントにしてくれるらしい。いつもは話し下手の美雨が話をまとめるなんて、とても信じられることではないが、ちょっとだけ嬉しくなっていた。

小樽はこの運河沿いに観光スポットが集まっている。ちょっと足を伸ばすだけで、いろいろなところに行くことができようになっているらしい。運河を二人で歩いているが、いつもの美雨と歩幅が違った。今日は美雨の歩く速度にあわせなくてもいいくらい歩調が合っていたからだ。俺がいつもより早く歩いてると美雨に言うと、美雨はちょっとだけ苦笑いを浮かべていた。その笑顔は誰かに似ていた。


3.ガラス工芸

冬の北海道がこんなにも寒いものだとは思わなかった。札幌の雪祭りの時は滑らないように足元を気にしていたのに、今は少し雪道に慣れている。あたりを見回すとちょっと厚着をしている団体旅行客を見かける。日本人とはどこか違う顔立ちをしている人がそこにはいる。すれ違って気づいたが、みんな中国語を話している。話に聞くと台湾からの観光客らしい。どうやってわかるのか俺にはさっぱりわからないが。

俺と美雨は運河のそばを歩いていた。美雨と一緒に歩くと、心が落ち着くのがわかる。俺と美雨は3年も一緒にいるのに、今日ははじめての会った時のように緊張している。それは、なんとなく小樽という土地が運んできてくれるのだろうか。それとも、いつもと違う美雨に戸惑っているだけなのだろうか。それは定かではなかった。

小樽は昔からガラス工芸の盛んな街だそうだ。運河は途中で終わってしまったが、この通り沿いにはガラス工芸の店が続いている。俺たちは、その中でも比較的新しそうな建物の中に入っていった。

目の前に広がるのは白熱灯に照らされた暖かそうなガラスたち、恋人同士でここに来ると話が弾みそうに思えてくる。ガラスでできたものばかりなだけに、地震でもあればすべて台無しになるんだろう。恋もこのガラス工芸のように繊細なものなんだろうなと一人で思っていた。このとき美雨はいろいろな形のガラス工芸を真剣に見ていた。じっくりと観察する姿は誰かに似ているような気がした。

美雨は一つのガラスコップを持ってきた。これが欲しいと猫が撫でたような声でせがんでくる。いつもの美雨ならこんなに甘えないのに、旅行に出ているせいか普段よりもおねだりをしてくるのだ。美雨の選んだこのコップはワイングラスのようだ。ついでに俺の分も買って、今夜はワインでも飲もうかという話にまでなった。

レジで俺がコップを買っているときも、美雨は落ち着きなく店の品物を物色してた。俺がもう買わないよと言うと、口を横一文字にしながら、ちょっと拗ねていたようだ。こんなに子供っぽいところが美雨にあったなんてことは今まで知らなかった。

店の外に出ると、粉雪が少し舞っていた。さっきまで一面の青空が広がっていたのに、一転して雪を降らせる雲に変わったらしい。俺たちはしょうがなくさらさらとした雪の中を歩くことにした。俺にとっては迷惑な雪も美雨には新鮮に見えるらしい。よほど雪が降るということが珍しいのだろうか。

二人でこの雪の中を歩いている。夢にまで見た光景がそこにはあった。いつもよりはしゃいでいる美雨を見ると童心に帰った気がする。次はどこへ行きたいのかと聞いてみると、どうやら有名なオルゴールの店があるらしい、美雨はそこに行くと行ってきた。俺の行きたいところはどうでもいいのかって思ったが、ここは美雨のためにメルヘン交差点を渡ってオルゴールの店へと入るのだった。


4.オルゴールの奏でる中で

外の寒さとは違って中では暖かい音が耳に入ってくる。うす暗いそこには小さなオルゴールが置かれている。ゆっくりと見て聞いて歩くだけでも時間がかかりそうに思えた。美雨は今までとは違ってゆっくりと俺についてきた。いつもの美雨のようにここでは俺のテンポに合わせてくれている。

それにしても、大きなオルゴールから小さなオルゴールまでいろいろと取り揃えてあるものだ。これだけの品物を集めるとすれば一体どれくらいの時間がかかるのかわかりそうにない、美雨の側にいると今まであまり興味がなかったものも変わって見えてくるようだ。

美雨がテーブルの上に載っている小さなオルゴールを一つ手にとってぜんまいを巻きはじめた。小さくて細い指でぜんまいを巻く姿はよく考えてみるとはじめてのことだ。美雨のその繊細な指使いを知っているのは俺だけだからな。そうやって、ちょっと不謹慎なことを考えている。

ぜんまいを巻き終わると美雨の手の平から音が奏で始めた。しっとりとした手の上で踊るように流れる金属音はまさに奏音であった。曲名はよくわからないけど、俺が聞いたことのある曲には間違いなかった。美雨は何か意図があってこの曲を選んだのだろうか。それは定かじゃないけれど、改めてオルゴールで聞いてみると新鮮に思えるから不思議だ。

美雨は他のオルゴールを見てみたいと歩き始めた。どうやら2階へあがる階段を見つけたらしく、美雨の黒いブーツが音を立てる。オルゴールの世界に溶け込んでいると、こんな何気ない音までも俺の耳で感じることができるようになった。階段には北海道の美しい景色が飾られている。これがまたきれいな景色でまた機会があれば来ようと美雨に言ってあげた。

2階にあがると、そこには高めのオルゴールが置かれていた。俺の給料ですら手の届かないものばかりなので、とてもじゃないけど買ってやれそうになかった。ふと美雨を見てみるとだんだんと疲れたような表情を見せている。そろそろホテルに帰ろうかとたずねると、もう少しいるって可愛く拗ねられた。いつもの美雨らしい表情だ。

美雨とゆっくりと店内を闊歩していると、さらに3階があることを知った。屋根裏に通じるような木造の階段を登ると、森の中に迷い込んだかのような雰囲気がそこにはあった。狭いけれども、その狭さを感じさせない空間が展開していた。美雨はやっぱり疲れているようで、眠たそうな表情を見せている。今度はさすがの美雨も滞在中のホテルへ戻ることを決めた。

外はまだ吹雪いているようだと思っていたが、冬の天気は変わりやすいらしい、もう吹雪いてはいなかった。寒いのは相変わらずだけど、さっきよりも平気になっている。やっぱり順応してきたのかな。なんてことを美雨と話しながら、ホテルへの道を急ぐ。

道を歩いているときにはじめて気がついたことだが、俺は方向音痴なのでとんでもない方向に歩いている可能性があるのだ。美雨も調子が悪いので俺に任されたのがまずかったようだ。いつの間にか変な坂道を登っている。さすがに小樽は坂の多い街で至るところに坂があるが、これを登るのは見た目以上につらいことだ。

その坂道を登りきるとそこには神社があった。水天宮と書かれているものがあったので、どうやらその水天宮という神社らしい。雪であたり一面覆われているせいか、とても歩きにくい。俺と美雨はここで小樽の街を見下ろしながら一息ついているのだった。


5.ホテルに戻って

時間が経つにつれて寒さが身に凍みてきたのでホテルのある方向を確かめ二人で再び歩き出した。雪の上を歩くのは慣れていないので、埋もれたりすることがよくあるが、美雨はブーツのためか思ったよりも楽に歩いているようだ。雪の感触を確かめながら、ここでの拠点へと足を運ぶ。

ホテルに到着すると、今までの寒さが飛んでしまうほどに暖かく感じた。ここでは暖房がなかったとしたら生活できたものではないなとそのとき思った。俺と美雨はエレベーターを使って泊まっている部屋へと向かう。エレベーターに乗っている時はいつも寄り添っているが、今日の美雨はまたよそよそしく一人でだまって立っていた。そして、目的の階で扉が開くとさっさと部屋へと向かって行った。

部屋に入るとようやく落ち着いた時間を取り戻すことができる。美雨はベッドの上に倒れこむように体を沈めこんだ。だいぶ疲れたんだろうな、今日の美雨はいつもよりもはしゃいでいたから、昔、俺の知り合いにそんな奴がいたよな。出かけて帰ってくるとぐったりと寝てしまう奴がな。美雨はすっかり眠りに入ってしまったようだ。

俺は美雨に毛布をかぶせながら寒さでほてったほっぺに軽くキスをした。美雨はすっかり寝入っているので、今なら何をしても気づかれそうにない。しかし、俺は理性を働かせてそれはやめることにした。なにせ夕食もまだこれからなんだから。それまでは、とりあえずこのまま寝かせておくことにした。

俺は一人で何もすることも無いので、浴槽にお湯を張って一息つくことにしたのだ。ゆっくりと旅の疲れを癒すことが何よりも大切だからな。このまま美雨と一緒にいると、やることが無いのも事実だからな。そう思って浴室で一人ゆったりと寛ぐことにしたのだ。

ユニットにしては広いバスタブのため、お湯が張るにはかなりの時間が必要だったが、その間は美雨の寝息を感じながら本を読んでいた。俺だって本ぐらいは読むこともあるんだと言わんばかりに。でも、その本というのが観光ガイドだったりする。夕食はちょっとでかけてみようと思って、感じのいい店にさそってみたいからだ。

浴室にお湯の具合を見ると十分な高さまで溜まっていた。俺は服を脱ぎ捨てて、ゆっくりと体をバスタブに沈み込ませた。下半身から体が温められていくのはとても心地がいい。旅の疲れをここでゆっくりと取ろうと思って。目を瞑り首を傾けて寝るような状態でいるとさらに気持ちがよくなっている。本当に寝てしまいそうだ。

ほんわりほんわりとした気持ちで目を開けてみると体の感覚が全くなくなっている。まるで湯気のような存在になったかのようだ。俺は湯船に浸かっているはずなのに、どうしたことかお湯の感触は全くもってない、意識がまだはっきりしないためだろうか、あたりがはっきりと見えていない。なんだか知らないがゆらゆらと揺れているような感じもしている。

そして、ようやく意識がはっきりとしてきたので目を開けることがでるようだ。体の感覚はまだしびれた感じがして動かないが目だけはゆっくりと動かすことができた。そのままゆっくりと目を開けるとそこには部屋の天井が見えてきた。俺は浴室にいたはずなのに、一体俺に何が起きてたのだろうか。

体を動かそうとしてもまったく動かないし、どうすることもできないので、自分に何が起きたかを知ることはできなくなっていた。そして、物音がするかと思うと目の前に見えたのは何と俺の姿だったのだ。


6.美雨の秘密

俺は愕然としてしまった。目の前にいるのが俺だと言うことだけでも気が動転してしまう。今の自分自身に何が起こっているのかもわからないというのに、どうしたことなのだろうか。目の前にいる俺は俺に向かって話をしてきた。どうやら目の前にいる俺は自分が美雨だということを主張している。そして、俺は美雨の姿をしているのだと。

俺の体はまだ動くことができないが、顔だけは動かすことができるようになってきた。俺は目の前にいる俺に向かって話をしようと口から声を出すと、そこから出されたのは美雨の声そのものだった。普段聞いている声とは違うということは、やっぱり俺が美雨の体に入ってしまったようだ。

徐々に体の隅々まで感覚が戻ってきた。戻ってきたと言っても美雨の感覚として戻ってきたようである。これは、初めて感じる女の感覚だ。俺はようやく自分に起きたことが現実に起きたことだということに理解ができた。目の前の俺はもう一つのベッドに座り淡々と話を始める。ここで起きた出来事の一部始終を話てくれたのだ。

その中で美雨は俺の体に入るために、俺と付き合っていたと言う。それにはどうしても納得がいかなかったから俺は混乱した。どうして、俺の体に入りたいのか、それに人の体に入ることができるのだろうか。頭の中の情報が整理されないまま考えが張り巡らされる。とにかく今わかっていることは、俺が美雨の体を動かして美雨が俺の体を動かしていることだった。

美雨が朝のシャワーを浴びているときに、浴槽に薬を仕込んでおいたと俺の姿をした美雨は教えてくれた。お湯を張って入ると体と魂の状態を不安定にさせることができると言う。そんなものの存在自体普通は信じることができないが、今の状態をわかっている俺としては嘘ではないと考えざるを得ない。

俺がこれから外に出る時は美雨として、美雨が外に出る時は俺として行動するということも決まった。美雨の姿をした俺は美雨(俺)、俺の姿をした美雨は俺(美雨)と呼ぶことも決めた。俺(美雨)が言うにはこれから先、お互いのみためにあった言葉遣いをすることも強制された。守らなければ元に戻るチャンスはなくすということだからだ。

美雨(俺)としてはこの条件を飲むより他に無かった。美雨(俺)にはやっぱり男としての生き方しかわからないからだ。俺(美雨)にどうしてこんなことを考えているのかという理由を尋ねるが答えようとしない。

とりあえず俺(美雨)が夕食に行きたいということで、美雨(俺)の決めた店へと向かうことにした。このまま出かけようと準備を始めると俺(美雨)は美雨(俺)に自分が用意をしていた黒のミニとブラウスに着替えをするよう命令し、バッグやコート、マフラーの身に付け方まで細かく指示をされた。

そして、美雨(俺)がブーツを履こうとしたそのとき俺(美雨)は10cmもあるような黒のハイヒールを強要したのだ。完全に俺(美雨)の奴隷と化している美雨(俺)はそれに従わざるを得なかったので、すべてが慣れないものに身を委ねることになったまま、二人で目的の店へと向かうのだった。


7.プレゼント

美雨(俺)がさっき見つけた店は簡単に見つかった。雑誌の地図を見るほどでもないくらいにあっという間に見つかった。それよりも、雪道の中を慣れない姿で歩いてきたせいもあって、美雨(俺)は疲れてしまっていた。俺(美雨)のペースにどうしても合わせることができない。これが今まで俺(美雨)には苦痛だったということなのだろうか。

疲れた細い足を休めることもなく店の中に入る。ここでは俺(美雨)が俺らしく振舞うことになっているので、美雨(俺)はそのあとをついて行くだけだった。カウンター席ががら空きの店内で個室を選ぶ。履きなれないヒールをここで脱ぐことができて開放感に浸っていたが、ストッキングを通して素足で触れる床の感覚に違和感を覚えた。うまく歩くことができないのだ。

美雨(俺)の前に俺(美雨)が座り注文を取る。俺(美雨)は店の人に俺の口調を真似ながら食べたいものや飲みたいものを伝える。その姿を見ている美雨(俺)はちょっと美雨のように苦笑いを浮かべていた。店員が行った後で俺(美雨)は肩の力を抜いて、緊張したと笑顔を見せる。

目の前にいる俺(美雨)を見ながら、いつもの俺と何も変わらないように見えるが、中には美雨の意識が入っていることを考えると、なんだかおかしかった。同じように美雨の中にいる俺はまだ慣れない身体の感覚に戸惑っている。すべすべとした肌を触ったり、髪の感触を確かめたり、初めて体験するミニスカートの感触のすべてが新鮮でまだ慣れないものだった。

そんなとき、俺(美雨)は美雨のバッグから小さな箱を取り出すように言った。美雨(俺)は黒いバックの中を小さな手で探し始めた。小さな箱とだけ言われてもわかるはずがないと思うのに、すぐに見つかった。可愛らしいリボンがつけられている赤い箱だった。これって、俺(美雨)へのプレゼントということなのだろうか。

たぶん、プレゼントだと思い込んだ美雨(俺)はこの箱を俺(美雨)に差し出した。目の前では俺(美雨)が照れ笑いをしながら受け取る姿があった。いつもの俺が美雨からプレゼントをもらうときと同じ表情を見せて、ありがとうと言う。

開けていいかと聞かれたので、美雨のような口調で美雨(俺)は許可をしてあげた。俺の演じる美雨(俺)もなかなか美雨のようだと自身を持ちながら。俺(美雨)は小さな箱を開けてみる。そこには、四角いチョコレートが一つだけ入ってた。これを手に取って俺(美雨)は食べてもいいか美雨(俺)に尋ねる。

にんまりとした表情を浮かべた俺(美雨)はそのチョコレートを口に運んで行った。俺(美雨)はゆっくりと味わいながら、そのチョコをお腹へと詰め込んでいった。食べ終わると同時に何かを実現した達成感のようなものが出されていることが俺(美雨)から感じられる。

美雨(俺)には何が起きたのかわからなかったが、今までの事の真相を知ろうと思い俺(美雨)に尋ねようとしたところで料理が運ばれてきた。食べ終わるまでは話さない方がいいと思い、とりあえず料理に箸をつけてから、その後でじっくりと話をすることに決めた。


8.事の真相

料理を口に運ぶ自分は、いつもの美雨のように上品に食事を取らなければならなかった。俺のような食べ方をしていてはきれいな美雨の姿に似つかわしくないし、化粧も落ちてしまうからだ。だから、食事をするだけでもとても疲れた状態になる。美雨の身体はどうやら疲れやすい、いや女性の身体が疲れるように社会が成り立っているということなのだろうか。

テーブルがきれいになったところで、美雨(俺)は事の真相を俺(美雨)に尋ねた。一体なにがしたくてこんなことをしているのか、そして、さっきのチョコレートに込められた意味はなんなのか、それを教えて欲しいと迫ったのだ。もちろん、美雨の口調だったのでそれほど迫力はない。それに応えるように俺(美雨)はゆっくりと口を開け始めた。そして、事の真相を話始めたのだ。

・・・・・・説明を続けること数分間・・・・・・

俺(美雨)の口から最後の一言が言い渡されたとき、俺は呆然としていた。これから先、俺の身体には戻れないということを知ったからだ。それだけではない、今回の旅行で俺は美雨と旅行を続けてきたはずだったが、確かに身体は美雨ではあるけれど、中身は俺が高校の時に俺にいじめられていた男だったというのだ。

旅行をする前に美雨の身体を今の俺が美雨に入っているように奪っていたのだ。そして、なるべく美雨として行動をすることで、俺の気を安心させようとして、この計画を実行したのだと言う。そして、さきほどのチョコレートは魂と身体の結びつきを高める効果があり、俺がかかったような不安定な状態にはならないので、俺が俺の身体に戻ることはできないのだ。

そして、奴の身体が入っているはずの美雨は火の不始末によって焼死したとを知らされたとき、俺は美雨としての人生を送らなくてはならないことを知ったのだ。もう2度と美雨に会えない、そして、その美雨として生きなくてはならない、俺はもう俺ではない。それらのことがすべて理解できたとき俺の姿も目の前にはいなくなっていたのだ。

ホテルに戻ると俺(あの男)が美雨(俺)の帰りを待っていた。皮肉なことに美雨(俺)にとっては俺(あの男)しか頼れる人がないなかったため、これからの人生を共に歩んでいくことを誓ってしまった。それが、俺の美雨に対する償いでもあったからだ。

北の大地に降り立ったときもう美雨はいなかった。このバレンタインデーは俺が美雨の心を持つようになってしまっても、いつまでも忘れないでいることだろう。





 

本作品の著作権等について

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