僕色に染める
 Tira


1. 相談

 駅前の繁華街から少し離れた商業施設の一角。五階建ての白いビルに眩い太陽の光が反射し、尚更白さが際立って見える。そんなビルの四階――小奇麗なオフィスには事務机が複数の島を作っており、比較的若い社員達が各々のディスプレイを眺めていた。
 奥田は椅子から立ち上がると、背後のブラインドを閉じ日差しを遮った。空調が利いているものの、背中に日差しが当たり続けるとジワリと汗が滲み出てくる。少し背を反り、大きく息を吐いた彼は椅子に座りなおすと、社員達が奏でるキーボードやマウスのクリック音を聞きながらディスプレイに映るデータを眺めた。
「課長。東北地方への男性用トレーナー出荷数を多めにしたいと思うのですが」
「どれ……」
 男性社員から手渡された資料に軽く目を通した奥田は、「分かった。じゃあついでにこのまえ投入した新製品の評判について、各店舗に確認しておいてもらえるか?」と微笑んだ。
「はい課長。では各店舗に確認しておきます。結果はまとまり次第、お伝えします」
「ああ、頼むよ角谷君」
 軽く会釈した角谷は自分のデスクに戻ると、素早い手捌きでキーボードを叩き始めた。
 奥田は全国に百店舗以上を展開するスポーツ関連商品を販売する会社に勤めており、各店舗に品物を配送する部署の課長を務めていた。部下は十五名程度。殆どが二十代の若い社員だ。
 先ほど奥田に提案した角谷も、入社二年目のフレッシュな社員である。短めの黒い髪に細身で白い肌――インドア派であまり社交的な性格ではないが、彼の真面目さはこの部署で随一だと思っており、若いながらも信頼のおける部下の一人だと感じていた。
 元々開発部隊で働いていた四十過ぎの自分が、畑違いの部署で若い社員達と働く事に若干の違和感を覚えないでもないが、部長から是非努めて欲しいという要望があり、また開発以外の事もしてみたいという気持ちも少なからずあったため、一週間程考えた末に承諾した。正直、課長と言うポストにも魅力を感じていた。
 自慢では無いが、前の職場でもリーダーとして人間関係は上手く出来ていたと思う。部長にもその辺りが気に入られていた様だ。
 この職場に来て約三年。部下達とのコミュニケーションもそれなりに取れている。女子社員からも慕われ、何の問題も感じなかったし、遣り甲斐のある仕事だとも思っていた。
「奥田課長。熱いお茶でいいですか?」
「ああ。いつも悪いね。でも自分で入れるから気を使わないでくれよ」
「いえ、私も飲むので一緒に入れます」
「そうか、ありがとう白藤さん」
「はい」
 昼休み――殆どの社員が外食で済ませるが、数名はコンビニで買い物を済ませたり、自分で作った弁当を持参し、職場で食べている。奥田も同じく、妻が作った弁当を持参し食べていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 白籐 奈津実は湯呑を机に置くと、ダークブラウンのポニーテールを揺らしながら奥田が食べようとしている弁当に視線を移した。
「奥田課長の奥さんって素敵ですよね。毎日お弁当を作ってくれるんですから」
「そうかな。家内は専業主婦だし子供も出来なかったから時間はたっぷりあるんだ」
「でも、朝早くに起きて作っていらっしゃるんですよね」
「それは君だって同じじゃないか。毎日手作りの弁当を持って来ているんだろ?」
「私は自分で作り置きしているおかずを入れて来ているだけですから。早起きは苦手なので簡単に済ませてます」
「確か栄養士の資格も持っていたんだっけ」
「はい。私なりに体調には気をつけているつもりなんです。それに、食べ過ぎるとすぐに太っちゃうんです」
「そうか……」
 奥田はそれとなく奈津実の全身を眺めた。今日はダークグレーのスーツだ。彼女はお洒落に気を使っているのか、綺麗好きなのかは分からないが、毎日異なるスーツで出社していた。殆ど替えない奥田にとっては、そんな彼女が清潔感のある女性に映った。ウェストの括れたジャケットとタイトスカートに身を包み、背筋がピンと伸びた奈津実のスタイルに女性らしい美しさを感じる。彼女は今年度入社したばかりだが、整った顔立ちと括れたスーツを着こなすスタイル、それに温和な性格が職場でも貴重な存在となっていた。男性社員から良く飲みに誘われる様だが、誰かと付き合っているという噂はまだ聞こえてこなかった。
「あの、奥田課長」
「何だい?」
「食事が終わったら少し相談させて頂きたい事があるのですが……」
 少し顔色を曇らせた彼女は奥田から視線を外し、呟く様な小さな声で言った。
「俺に? 仕事の事か?」
「いえ、プライベートの事なので、仕事中には話し辛くて」
「構わないよ。じゃあ食事が終わったら隣の小会議室で聞くよ」
「ありがとうございます」
 奥田の返答に笑顔を作った奈津実は、自分の席に戻り弁当を食べ始めた。
 誰か好きな男性社員でも出来たか――彼はそんな事を思いながら愛妻弁当に箸を付けた。



「すみません。折角のお昼休みなのに」
「別に構わないよ。昼休みと言っても大してする事は無いんだから」
「ありがとうございます」
 小さな会議室には白いテーブルが置かれ、複数人が座れる椅子が並んでいる。奥田はブラインドを下ろすと、テーブルを挟んで彼女を座らせた。
「で……どうしたんだ?」
「はい。あの……」
 奈津実は少しの間を空けると、「角谷先輩ってどんな方なんですか?」と切り出した。
「角谷君?」
「はい」
「彼の事が気になるのかい?」
「その……。彼女になって欲しいと告白されました」
「へぇ〜。あの真面目で女性の噂も無かった角谷君が君に告白したのか」
「私自身、角谷先輩とは殆ど話した事が無くて……」
「まあ、彼はどちらかと言うと聞き手だからな」
 机上に置いた指を絡ませながら、彼女は少し困った表情をした。
「それで……返事はしたのか?」
「もし職場で付き合う様になったら別れた時に居辛くなるので、出来れば今の関係のままが嬉しいですと話しました」
「要は好きでは無いって事か」
「私は同年代の男性にはあまり興味が無くて。結婚するならもう少し年上の男性がいいんです。包容力があって誰からも好かれる様な優しい人が……」
 俯いていた奈津実がチラリと奥田を見て、軽く頬を赤らめた。
「こう言うとセクハラと思われるかもしれないが、君みたいな美人なら若い男性の方がお似合いだと思うけどな」
「私なんて美人じゃないですよ。大木先輩や橋爪先輩の様にルックスもスタイルも……仕事もテキパキとこなす先輩がいますし、私はそんな先輩方に憧れています。私も先輩方の様に素敵な女性にならたらいいなって」
「まあ……確かに彼女達は美人だけど、個人的には白藤さんの方が……」と言いかけて言葉を止めた。課長の立場で、女性社員の容姿に関して優劣を話すべきではないと思ったのだが、目の前にいる奈津実は俯いたまま、顔を真っ赤に染めていた。
「ほ……本当ですか?」
「えっ。な……何が?」
「奥田課長から見たら、私の方が……その……」
 両手で赤らいだ頬を隠す彼女が妙に可愛らしく思えた。彼女の言動から、自分に好意を持ってくれているんだと感じた奥田は「あくまで個人的な話だから、誰にも言わないでくれよ」と話した。
「私、もっともっと仕事を頑張って奥田課長のお役に立てるようになりますっ」
「ははは。今のままで十分助かってるよ。白藤さんは、今の白藤さんのままでいてくれたらいいんだ」
「……ありがとうございます。奥田課長。私、角谷先輩にきちんと自分の気持ちを伝えます。実は今日、仕事帰りに食事に誘われているんです。その時に……」
「行くのかい?」
「別に食事をするくらいなら、他の先輩達と同じですから。私には片思いの男性がいると話せば諦めてもらえると思うんです」
「……そうか。彼とはまだ短い付き合いだが、本当に真面目で奥手な男性なんだ。そんな角谷君が女性に告白する勇気があったとはなぁ。しかも食事にまで誘うなんて。余程、白藤さんの事がお気に入りなのかな」
「真面目なタイプは嫌いじゃないんですけど……。私は先程お話しした様に年上で包容力のある男性の方が好きなんです。奥田課長の奥様がとても羨ましいですよ」
「俺なんて大した男じゃないよ。平和主義者で自分の気持ちをしっかり伝えられない臆病者さ」
「誰も奥田課長をそんな風には思っていませんよ。ああっ、すみません。お昼休みが終わっちゃいましたね」
 壁掛け時計を見た奈津実が申し訳なさそうに会釈した。
「全然構わないよ。俺に相談してくれて逆に嬉しかった。どれくらいサポートできるか分からないけど、何かあれば出来る事はするから」
「ありがとうございます。奥田課長に相談させていただいて良かったです!」
 椅子から立ち上がった奈津実は、赤く染まった頬を手のひらで冷ましながら会議室を出て行った。
 ――満更悪い気はしない。
 二周りほど若い女性から好意を持たれる事に、心が軽くなる。人生、まだ捨てたもんじゃない。
 そんな風に思った奥田は、席に戻ると軽く鼻歌を歌いながらディスプレイのデータを眺めた。



「なあ角谷君。帰りにちょっと寄って行かないか?」
 そろそろ定時になろうと言う時間。奥田は廊下ですれ違った角谷に話し掛けた。
「課長すみません。今日はちょっと……」
「何だ? 用事があるのか?」
「用事と言うか……。実は白藤さんを食事に誘っているんです」
「ほうっ。真面目な角谷君が白藤さんを……。一体どうしたんだ?」
 奥田は何も知らぬ振りをして彼に問い掛けた。角谷はしばらく迷いながらも、周りに人がいない事を確認すると「僕は白藤さんを好きになりました。こんな感情……初めてです。何としても彼女と付き合いたい。そう思っています」と返答した。
「そうか。彼女は私の部署の優秀な社員だからな。角谷君以外にも、彼女に好意を持っている男性社員は結構いるみたいだが」
「はい。殆どの先輩が白藤さんに好意を持っていると聞いています。でも僕は絶対に諦められないんです。だから今日は僕の気持ちを全て白藤さんに伝えて、彼女を僕の色に染めるんです」
「なあ角谷君。君の気持ちはとてもよく分かるが、一番大切なのは白藤さんが君の事をどう思っているかだ。あまり強引な事をしたら、逆に嫌われるぞ」
「……課長、ご忠告ありがとうございます。白藤さんが僕を受け入れてくれなければ素直に諦めます」
 彼の言葉に感心した奥田は、「そうか。君はまだ若いのに、潔くて立派な男性だな」と微笑んだ。
「でも課長。僕は……白藤さんが僕を受け入れてくれる様に最大限の努力はしますよ」
「そうだな。分かっているとは思うが、女性には紳士の対応が大切だぞ」
「はい、分かりました。課長、そういう事情で今日のお誘いは……」
「ああ、構わないよ。そこまで決心しているなら止めはしないし、誘わないよ。くれぐれも白藤さんに辛い思いだけはさせない様にな。これは上司と部下ではなく、男同士の約束だ」
「はい、課長」
 ちょうど就業時間が終わり、他の社員がオフィスから出てきた。
 少しは援護射撃が出来ただろうか?
 ある意味、自己満足かも知れないが、奥田は奈津実を角谷から守ってやっている気分になっていた――。






2.身勝手

 ――翌日。奥田がオフィスに入ると、すでに奈津実の姿があり、黙々と仕事をしていた。普段は一番に入る奥田はその様子に少し驚いた。
「課長、おはようございます」
「あ……ああ、おはよう。今日はやけに早いんだな」
「はい。急いで片付けないと仕事が溜まるので」
「そうか。感心だが、あまり無理はしない様にな」
「ありがとうございます」
 笑顔で話す奈津実の後ろを通った時に、ふと違和感を覚えた。彼女は昨日と同じダークグレーのスーツを着ている。普段は必ず別のスーツを着て出社する奈津実には珍しい。
 ふと脳裏に過ぎったのは、彼女が家に帰らなかったと言う事だ。もしかしたら、角谷と夜遅くまで一緒にいたのかもしれない。いや、朝まで――。
「なあ白藤さん。昨日はその……角谷君と食事をしたのかい?」
「あ、はい。しましたよ。ご馳走になりました」
「そうか……」
 プライベートな内容をどの辺りまで聞いてよいのか分からず、躊躇していると「あの、課長。角谷先輩は三日ほど会社を休むそうです」と奈津実が話し掛けてきた。
「角谷君が? 昨日は飲みすぎたのか?」
「そういう訳じゃないですけど」
「どういう理由だろうか。白藤さんは知っているのかい?」
「まあ……そうですね。角谷先輩は自分の家にいますけど、出社は無理みたいです」
「出社が出来ない? まさか……」
 彼の気持ちが通じて奈津実と付き合う事になったのかと思ったが、逆に断られて出社拒否か――。
 そんな事で会社を休まれては困る。そう思った奥田は席に座ると、彼のスマホに電話を掛けた。程なくして呼び出し音が奈津実の方から聞こえた。
「あっ、課長。角谷先輩のスマホは私が預かっています」
 彼女はジャケットの内ポケットから彼のスマホを取り出した。
「白藤さんが? どうして?」
「電話は出れませんけど、メール等のやり取りなら代わりに出来ますから」
「角谷君の代わりに白藤さんが?」
「はい」
 彼女はニコッと笑い、また内ポケットにスマホをしまった。
「彼は……角谷君はどうしたんだ? 白藤さん、何か隠しているのか」
「課長、少し話が長くなるので、昨日の様にお昼休みに時間を頂けませんか?」
「今じゃ駄目なのか?」
「たくさん仕事がありますし、他の人に聞かれたくないので」
 そう言うと、「おはようございます」と数人の社員が入ってきた。
「あ、ああ。おはよう」
 奥田は曖昧な返事をした。
「おっ、白藤さん。今日は早いんだね!」
「はい。ちょっと仕事が溜まってて」
「あれ! 昨日と同じスーツなんて珍しいな。はは〜ん、さては昨日、角谷と食事に行くって言ってたよな。まさかアイツと朝帰り?」
「嫌だ丸山先輩。からかわないで下さいよ」
 そう言いながらも、彼女は満更でも無い表情でディスプレイに映る数字にカーソルを合わせていた。
「でも、実際そうなんじゃない?」
「……ご想像にお任せします」
「否定しないって事は……。へぇ〜、あの角谷がなぁ。一番無いと思ってたのに。マジ有り得ないな」
 その言葉に手を止めた奈津実は、「角谷先輩もやる時はやるんですよ。先輩の事、馬鹿にしないで下さいね」と言い、素早い手捌きでキーボードを打った。
「おっ! アイツをかばうなんて……じゃあ白藤さんは角谷のものになっちゃったって事か。残念だなぁ」
「まだ決まった訳じゃないですけど。そうなればいいかなって……」
「何それ? 変な言い方だな。ははは」
「私、角谷先輩以外の男性には興味が無くなりそうです」
「無くなりそう? じゃあ今ならまだ大丈夫って事か」
「いえ、多分無理だと思います」
「なら素直に角谷の彼女になったって言えばいいのにさっ」
 丸山に言われて少し考えた彼女は、「まあ……そうですね。別に付き合っているって言ってもおかしくないですよね」と答えた。
 そのやり取りを聞いていた奥田は訳が分からなくなった。話し方からすると、彼女は角谷と一夜を共にしたのだろうか。やはり、彼の熱意に心が動き、受け入れたという事か――。出社してこないのは断られたのではなく、嬉しくて酒を飲み過ぎたせいか?
「それにしても、三日も会社を休みたいなんてどうなっているんだ。一体何を考えているのやら……」
 自分には理解できない。それに、昨日話していた彼女の気持ちは何だったのか。奥田は若干腑に落ちない気持ちで午前中を過ごした。



「なあ白藤さん。プライベートな事を聞くなんて、俺の立場じゃマズイと思うが……。差し支えなければ、昨日の事を聞かせてくれないか?」
 昼食を終えた二人は、昨日と同じく小会議室にいた。背凭れに寄りかかり、タイトスカートの上に両手を添える奈津実は、「いいですよ課長。全部話します。いや、課長には知っておいてもらった方が後々楽なので」と目を細めて笑った。
「白藤さん、どういう意味だ?」
「順番に話しますね。昨日の仕事帰り、私と角谷先輩で食事に行きました。最初は他愛も無い話をしていましたが、角谷先輩が私と付き合いたいと言い始めたんです」
「まあ……。想像はつくが」
 奥田も背凭れに背中を預け、彼女の言葉に頷いた。
「私は昨日、課長にお話した通り、角谷先輩には好意を持っていなかったのでお断りしました」
「で?」
「何度か同じ事を繰り返して話したのですが、私の気持ちが変わらない事が分かると、お酒をたくさん飲み始めたんです。次第に呂律が回らなくなって来て」
「自棄酒になったんだな。彼にとって白藤さんへの告白は一大決心だった様だから、致し方が無いか」
 昨日、角谷から聞いた決心を思い出した奥田は唇を歪めながら「ふん」と鼻息を漏らした。
「お店から出るのもフラフラだったので、とりあえず角谷先輩が住んでいるワンルームマンションまで送り届けたんです」
「大変だったな。じゃあ角谷は二日酔いになって電話にも出れない状態だから、白藤さんが彼のスマホを代わりに……。いや、違うか。おかしいな」
「はい、違います。角谷先輩、酔っ払った振りをしていただけだったんです」
「……何のために?」
「私を自分の家に誘い出すために……です」
「んん? まさか……」
 奈津実と関係を持つために、わざと連れ込んで――奥田は険しい表情で彼女を見た。
「水を飲みたいと言ったので、コップに入れて渡しました。そうしたら、角谷先輩はポケットから取り出した何かの薬を口に含んで、水と一緒に飲み込んだんです」
「薬?」
「酔いを醒ます薬かと思いましたが、角谷先輩はすぐに深い眠りに付きました。玄関を入ったところだったので、部屋まで引きずろうと思いましたが、私の記憶はそこで無くなりました」
「無くなった?」
「はい」
「気を失った……と言う事か。でもなぜ?」
「角谷先輩が飲んだ薬って、怪しいネットサイトから手に入れたものだったんです」
 首を傾げる奥田を見つめた奈津実は両腕で身体を抱きしめると、「それって、肉体から魂を分離する薬で、他人の肉体を乗っ取る事が出来るんですよ。こうして僕が白藤さんの肉体を乗っ取っているみたいに」と怪しげに笑った。
「……の、乗っ取る?」
「はい課長。僕は角谷です。僕は薬を使って魂の存在になり、白藤さんの肉体を乗っ取って操っています」
「な……何を訳の分からない事……」
「課長。そんな事を言いながら気づいていますよね。普段の彼女じゃないって事くらい」
 分かっていた。昨日までの彼女とは違うと気付いていた。奥田課長と呼ばれていたのに、今日は課長と呼んでいた。スーツだって昨日のままだ。それに、普段の彼女とは明らかに違うキーボード捌きは奥谷そのものだった。しかし、その理由が理解できない。自分の目に映るのはどう見ても白藤奈津実だ。にも関わらず、本人は角谷だというのだ。
「事実なんですよ。僕は白藤さんを自由に出来る。この肉体も記憶も! 昨日もここで白藤さんと話をしたんですよね。彼女に乗り移った後、記憶を盗み見たんです。僕には好意を持っていない事が分かりました。白藤さんは課長の事が好きなんですよ。課長の言葉に胸が高鳴り、課長と話せる事が嬉しい。出来れば課長の奥さんになりたいって思っていた様です」
「ほ、本当に……角谷君なのか?」
「昨日の定時前、僕と話しましたよね。あれって僕に白藤さんの事を諦めさせるためだって事、彼女の記憶から察しがつきました。男同士の約束だと言っていましたけど、裏ではそういう気持ちだったんですね。事実を知ると、何だか残念に思いましたよ。正直、あの時は課長の言葉に心が揺れたんですけどね……」
「そ、それは……」
 言い返す言葉を思いつかない。
「課長、僕がこうして白藤さんの肉体を乗っ取っている間、魂の抜けた僕の肉体は眠ったままです。だから出社は無理なんです。でも、その分は白藤さんの身体を使って働きます。そのために早く出社して、僕の仕事もやっていました」
 奥田は、彼女の口から暴露される言葉に驚愕した。奈津実の肉体が角谷に乗っ取られている――彼の思い通りに操られているなんて。
「信じられない……。しかし、それが本当だとしたら何のために? 君は白藤さんが好きなんだろう。その白藤さんの身体を乗っ取って何になるんだ」
「記憶を書き換えるんです。僕が乗っ取っている間は、白藤さんの脳にある記憶も全て僕のものです。僕の事が好きになる様に……いや、元々僕の事が好きだったという記憶に書き換えれば、白藤さん自身も辛い思いをしなくてすむし、僕もハッピーです。上手く記憶を書き換えるためには3日くらい必要なんですよ。だからその間は僕が白藤さんとして会社に出社しつつ、新しい記憶を定着させます」
「な……なんて事を……。本気なのか?」
「それだけ白藤さんの事が好きなんですよ。僕が自分の肉体に戻った時には、白藤さんは僕の彼女になっています。朝方も白藤さんの口調を真似して話しましたけど、他の先輩達にも白藤さんに成りすまして、角谷先輩と付き合っていると言い回れば納得してくれるでしょう」
 奈津実の声で淡々と話す角谷に、心底怒りを感じる。
「角谷君っ! いや、角谷っ。自分が何をしようとしているのか分かってるのか? 彼女の本心を捻じ曲げようと……彼女の人生も捻じ曲げようとしているんだぞっ」
「そんなに大げさな話じゃないですよ。だって、もしかしたら僕自身の気持ちが変わって、彼女と別れるかもしれないし、彼女も付き合っている間に別れたいって思うかも知れませんよね。先の事なんて誰にも分かりませんから。でも、とりあえず今は僕の事を好きになる様に記憶を書き換えて……彼女を僕の色に染めます」
「やめろっ!」
 思わず席を立ち、大声を出した奥田は怒りの形相で奈津実を睨み付けた。
「課長。どうして僕が課長に全てを話したか分かりますか? それは僕自身が出社出来ない事を、他の人達が怪しまない様に隠して欲しいからです。もちろん、この身体を使って二人分の仕事を一生懸命します。それに……」
 奈津実が悪戯っぽい表情に変わると、白いブラウスのボタンを胸元まで外した。
「課長も白藤さんの身体に興味がありますよね。何も詮索せずに黙っていてくれるなら、好きにしても構いませんよ」
 そう言うと、右手でジャケットごとブラウスを開いた。白い肌の鎖骨が見え、ブラジャーの肩紐が露になる。
「昨夜、この肉体を乗っ取った後、隅々まで確認しました。とても綺麗ですよ。お尻にほくろが一つあるんです。陰毛はすごく薄いから水着を着る時も特別な処理をしなくて構わないみたいですね。本人は薄毛を気にしている様ですけど、僕は全然問題ありませんよ。むしろ女性器が丸見えなので興奮します」
「くっ……」
 奥田は歯を食いしばった。自ら白いブラウスを肌蹴け、肉体の特徴を恥ずかしげも無く話す彼女に、少なからず興奮を覚えてしまう。他人に肉体を操られ、淫らな言動を強要される彼女の気持ちはどんなだろう。
「いい加減にしろっ。彼女の事が好きならば、どうして彼女の気持ちを大切にしてやらないんだ」
「これから白藤さんが何を大切にしたくなるのか。それは僕が決めるんです。課長は僕の事を黙っていてくれますよね!」
 立ち上がった奈津実が奥田の元に近づき、細い腕で彼の身体を引き寄せる。俯けばブラウスの向こうに、ブラジャーに包まれた胸の谷間がしっかりと見えた。
「いつでも触っていいですよ。白藤さん、課長の事が好きでしたからね。今から会議室を出て白藤奈津実に成りすまします。僕の仕事もまとめてやるので残業になりますけど、気にしないで下さいね」
 そう言った奈津実が服装を整えながら会議室を出てゆく。拳を握り締めながら彼女の後姿を見ていた奥田は、「こんな事になるなんて……。どうすれば白藤さんを助けられるんだ」と呟き、目を閉じた――。



 今日は星が良く見える。
 ブラインドの隙間から外を眺めた奥田は、一つため息をつくと黙々と仕事をする奈津実に視線を移した。カチカチとマウスをクリックしながら、各店舗に配送する物品の仕分けをしている様だ。その雰囲気だけ見ていれば奈津実そのものだ。他の社員は皆帰り、角谷が乗り移った白藤奈津実と奥田の二人だけ。時計を見ると、二十一時を回っていた。
「なあ白藤……いや、角谷。そろそろ終わらないか。白藤さんの身体にも負担が掛かるだろう」
「大丈夫です。あと三十分くらいで終わりますから」
 そう返事をした彼女に近づくと、ブラウスのボタンが一つ外され、左手が潜り込んでいた。
「お、おい……」
 彼の視線に気づいた奈津実がクスッと笑った。
「ずっと画面ばかり見ているとイライラするので、こうやって気分転換しながらしているんです。女性って乳首を弄るとすごく気持ちいいんですよ。硬く勃起して、指で摘まむと全身がゾクゾクするんです」
 奈津実は視線を画面に向けたまま、ブラウスの中に差し入れた手を大きく動かし、「んっ」と小さく吐息を漏らした。蠢く生地の向こうで彼女の乳首が執拗に弄られている事を想像すると、鼓動が高鳴る。
「頼むから白藤さんに悪戯するのはやめてくれないか」
「別に傷つけている訳じゃないですよ。それに、彼女はこの刺激を求めていますから。ああ、そうですね。じゃあ……奥田課長が代わりに弄りますか? 僕は……私は仕事をしているので好きにしてもらっていいですよ。奥田課長に触られるの、嬉しいですし」
 ブラウスから手を抜いた角谷が、彼女の口調で話し掛けてくる。
「なあ角谷……」
「奥田課長が何を言っても、角谷先輩は私の記憶を書き換えるまで出てきませんよ。それなら奥田課長もしたいようにすればいいんです。私は……奥田課長の事が好きだから何をされても構わないです。そっか……昨日は角谷先輩のところでシャワーを浴びただけの汚い身体だから触りたくないですよね」
「そういう事を言っているんじゃ……」
「私の事、気にして頂いているなら、私が奥田課長にして欲しかった事を叶えて欲しいです。こんな事にならなければ、絶対にしてもらえないですから」
 彼女はジャケットとブラウスのボタンを全て外し、大胆に開いた。白いブラジャーに包まれた二つの胸が現れ、奥田の鼓動を更に高ぶらせる。
「奥田課長。私、これでもDカップなんですよ。奥様の方が大きいですか?」
 角谷が彼女の手を操り、ブラジャーに包まれたふくよかな胸を下から持ち上げ、何度も揺らした。
「そ、それは……。なあ角谷っ。お前は彼女の身体で俺を誘惑して……どうしたいんだ」
「別に何もありませんよ。僕自身、課長にはすごくお世話になっていると思っていますし、今回の事を秘密にしておいてもらうんですから、これくらいは何の抵抗もありません。そう言えば白藤さんって、過去に三人の男性と付き合っていて、全員とセックスしているんですよ。もちろんみんな、三十代後半から四十代前半の男性です。お父さんの事が大好きだったから、その影響があるみたいですね。若干、ファザコンですよ」
 また彼女の記憶を盗み見し、知られたくもないプライバシーを暴露する角谷に「それ以上、彼女の記憶を見るなよ。プライバシーの侵害も甚だしい」と、強い口調で言った。
「課長が他人に言わなければいいだけです。僕と課長だけの秘密ですからね。ふぅ〜、キリがいいので、やっぱり今日はこれで終わります。もう帰りますけど、触りますか?」
 立ち上がった奈津実が両手でブラウスを広げ、身体を左右に揺すった。奥田の目の前で、ブラジャーに包まれた胸が窮屈そうに揺れ、理性を崩そうとする。
「俺は彼女自身の気持ちを大切にしたいんだ。それ以前に大切な妻がいる。部下の女性社員に手を出したなんて事になったら、俺の人生は終わりだからな」
「二人の秘密にするって言ってるじゃないですか。まあ……別にいいですけど」
 微笑む表情は、普段の彼女そのものだった。
「これから帰るって……何処に帰るんだ?」
「もちろん白藤さんの家ですよ。彼女もワンルームマンションで一人暮らしをしていますから。帰って一息ついたら、彼女の記憶を書き換えます。少しずつですけどね!」
 嬉しそうにブラウスのボタンを留める彼女にどうしてやる事も出来ない奥田は、「もう一度言うが、今の彼女の気持ちを大切にしてやったらどうだ」と話した。
「昨日の昼休み、白藤さんが課長と話す前に乗り移っていたら、課長もここまで気にしなかったと思うんですけど……やっぱり、白藤さんにあんな風に好意を表現されたら気になりますよね」
 そう言って、ジャケットのボタンを留めた。
「そうでなくても自分の部下なんだ。気にならない訳はないだろう」
「やっぱり課長は優しいですね。僕も課長の部下として働けて嬉しいですよ」
「今、そうやって言われても、彼女自身が生きているはずの大切な時間を消費するお前には何も感じないよ」
「僕が乗っ取っている間の記憶は上手く繋ぎますから。昨日、僕が肉体を乗っ取った瞬間から出て行くまでの記憶をね。朝食をとって会社で働いて……仕事の後は、僕の部屋で愛し合ってから帰る。この繰り返しです」
「角谷……」
「ねえ課長、想像して下さいよ。記憶を書き換えるためには、彼女の脳が気を許している状態でなければならないんです。こうして仕事をしていたり、緊張している状態ではなかなか難しくて。それに、眠っている間では定着しないんです」
「何が言いたいんだ」
「すなわち、性的に満足している状態が一番記憶を書き換えやすいんです。僕が彼女の手で、彼女が感じる部分を刺激してオーガズムに達する。その過程で、徐々に記憶を書き換えるんですよ。白藤さんがオナニーしている状況を想像すると興奮しませんか?」
 角谷が彼女の手を胸と股間に沿わせ、わざとらしく眉を歪めながら「あふん…あっ、あん!」と艶かしい吐息を漏らす。その姿から視線を逸らした奥田は、「何を言っても無駄なら早く帰れっ」と吐き捨てるように言った。
「分かりました。それじゃあ奥田課長、お先に失礼します。明日も早めに出社して頑張りますので、よろしくお願いしますっ」
 また奈津実に成りすました角谷は会釈をすると、普段の彼女と変わらない、背筋を伸ばした女性らしい歩き方でオフィスを後にした。
「くそっ。自分の部下をこれほど憎く思ったのは初めてだ……」
 奥田はやり場のない怒りを覚えながら、家路に着いた。

(続く)





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