火曜日6月2日 イライラの原因(その2)


 春先が過ぎ、梅雨の季節に入った六月。この辺りでも大分日が長くなってきていた。それでも高等学校の運動部だ、中々明るい内には帰れない。辺りは既に夕闇となっていた。
 自転車で走る凛太郎は、修一の温かい手のお陰か、マッサージの効果なのか、凛太郎の腰の痛みは大分引いていた。けれど、下半身全体が重たいような痛いような感じはまだあった。あまり修一に心配を掛ける事もしたくないと思い、気に掛けている風の態度は取らなかったけれど。
 昼時の一件で脇田にこってり搾られたのか、かなり疲労の色が濃い修一に、凛太郎が心配そうな目を向けた。
「やっぱり、相当扱かれたんでしょ。あんな場面で聞くような事じゃないよ。見たらそうだって解るじゃんか」
 修一が少し遅れ加減で凛太郎の後を追いながら、難しい顔をしていた。
「いやぁ、部内だとさ、あの二人ってあんまり話ししてないんだよな。俺なんか二人っきりでいるのって今日初めて見たんだぞ」
 修一はぐっとペダルを踏み込み、凛太郎の右側に並びかけた。自転車を漕いでいるせいか、凛太郎の頬は少し赤みを帯び柔らかそうな髪が空気の圧力で後ろに流れている。サラっとした前髪が額から離れ揺れている。白いセーラーカラーのブラウスは、ぴったりと身体の前面に押し付けられて二つの胸の膨らみを際立たせていた。スカートから伸びる足は白く細く、そして長く伸びている。ペダルを踏み込む度に見えそうで見えないスカートの中身が悩ましげだった。毎日見ている筈なのに、修一はちょっといいものを見た気分になっていた。
「でもさ、それって修ちゃんが鈍いだけなんじゃないの?」
 横に来た修一をふっと見返る凛太郎の目に、じっと自分の身体を見ている修一が映る。
「…………えっち」
 少し睨むような目をしながら、凛太郎がすかさず言う。見えていないとは思っているけれど、右手でスカートの裾を引き下げる。その仕種を見ながらも、修一は事も無げに言った。
「見えてねーよ。あれだよ、結構宮本さんて男子に人気あるからな。皆狙ってたりすんだぜ。絶対ツンデレ系だっつって。美人だしな」
 修一は前を向きなおして、少しニヤケた顔を見せた。凛太郎には遠い目をしながら話しをした修一が、宮本の姿を思い出しているように思えた。
(つんでれ? って解んないけど……。美人って言うのは認める……けど、何か、ヤダな)
 凛太郎は修一が他の女の子の事を思い浮かべている姿を見るのはちょっと嫌な気がしていた。単純に考えると自分の彼が余所の女を褒め、それを彼女が嫌がる、というものだったけれど、それが同性に対する嫉妬心から沸き起こった感情なのかどうか、今の凛太郎には知るべくもなかった。
「……ふーん。……修ちゃんてああいう感じの女(ひと)がいいんだ……。家のお母さんとはタイプ違うよねっ」
 一応遠まわしに、自分ではないタイプがいいのかと意地悪に聞いたつもりだった。凛太郎の外見は10人が10人とも母、千鶴にそっくりだと言われる位だ。それに修一自身も千鶴が好きだと言っていた位なのだから。ここで修一が「やっぱ千鶴さんの方がいいけどな」というなら、それは凛太郎の方が宮本よりいい、という事になるだろう。凛太郎は当然修一にその意図が伝わると思っていた。
「そうだなあ、千鶴さんて可愛い系だよな。でも宮本さんて美人系だし、違うな。結構ああいう髪の長い年上の女ってのもいいもんな。リンタもそう思うだろ」
 凛太郎の思惑など木っ端微塵にするような修一の返答。まるで男友達と話をしているように。凛太郎もこれには流石にカーッとなってしまった。朝からの第二ラウンドだ。
(僕に同意求めてどういう応えが欲しいわけ?)
「……悪かったね、髪短くて……」
 ボソリという凛太郎の声は修一には届かなかった。何か言ったという事は修一にも解ったけれど、それが何と言ったのかは解らない。慌てて凛太郎に聞きなおす。
「えっ? 何だって?」
 目の前の信号が赤に変わっていた。二人で仲良く? 停止線で留まる。
「今日は、もう送ってくれなくていいっ。一人で帰るっ」
 急に拗ねたように修一も見ずに言い出す凛太郎に、何がどうしたのか理解できない修一はおたついてしまった。
「な、なんだよ、突然。俺何かまずい事言ったか?」
 まるで自分が言った事の中身を理解していない修一は、あさっての方を向いている凛太郎の顔を覗き込むように見た。しかし凛太郎ももっと首を回し容易に顔を見せない。
「別に? 修ちゃんはそんな事言ってないんでしょ、なら良いじゃんか。もう信号変わるから行くよ」
 朝以来の凛太郎の不機嫌ぶりに、正直修一もどう対処しようかと戸惑ってしまう。実際女の子とのこの手の会話に慣れていない身としては、何処で地雷を踏んだのかも解っていなかった。
(なんだよ、またかよ……。しょうがねぇなぁ)
 さっきまで心配そうな目を向けていたというのに、いきなり怒りをそのままぶつけられてしまうのだから疲れると言えば疲れてしまう。しょうがねぇ、と思いつつも凛太郎に言った言葉をよく思い返してみた。
 歩行者信号が青に変わる。同時に凛太郎が車道へ飛び出していった。修一も遅れじとばかり加速していく。
(え〜? 部長の話しして、なんだっけ、宮本さんの話しして……。? あ? ああ?!)
「リンタっ、ちょっと待てよっ! 悪かったってば。もう言わないって!」
 自分の言葉に不備な点を見つけた修一が、スカートを捲れない程度に翻して先を行く凛太郎に、大声で謝った。
「!」
 修一の前を走っていた凛太郎の背中と自転車が、いきなりブレーキを掛けて目前に急激に迫る。修一もパニックブレーキさながらに、思い切りレバーを握った。もう五センチで追突、と言うところで何とか停車できた。
「アブねぇーな、急ブレーキ掛けんなよ」
 ほっと胸を撫で下ろす修一に、しかし凛太郎は無言で振り返っていた。いつもは可愛らしい、吸い付きたくなる唇も、今はへの字に曲がっている。
「……悪かったって。リンタに他の女の子の話ししちゃったから怒ったんだろ? いやぁもうしねーってば」
 頭を掻きながら心底悪かったという表情を見せる修一。
(別に他の女の子の事言ったから怒ってる訳じゃないよ)
 凛太郎も自分の怒りが何処から来ているのか、よく解らなくなっていた。そこへ、応えない凛太郎に修一が止めを刺した。
「なんか、リンタが嫉妬してくれるなんて、思いもよらなかったっつーか」
 それまでの怒りの表情からあっけに取られたような表情へ。そして遂には顔を赤らめ始めた凛太郎の顔。修一は不謹慎にも凛太郎の表情の移り変わりに、面白いなぁ、と思ってしまった。
(嫉妬? 僕が? 宮本さんに? 修ちゃんが他の女の子の事言ったから? うわぁああっ!)
 殆ど女の子だと言うのに、男としての自我が抜けきっていないのか、その怒りが嫉妬から来るものだと他人から指摘されて初めて解った。自分の相手が自分以外を褒め、自分を蔑ろにしていると感じる心理。自分以外の異性に興味をもたれたくない、という、子どもっぽい独占欲とは異なった、独占欲。嫉妬心。凛太郎は自分が極自然に女の子の階段を確実に登っている事に愕然とし、そして同時にその心境を、修一に見透かされた事に激しい羞恥心を覚えていた。
「な、ぼ、僕はっ、別に宮本さんの事なんて、気にしてないよっ。髪だって直ぐ伸びるしっ!」
「へ? ああ、髪なんて直ぐ伸びるわな。でもリンタ、今のままで十分可愛いし美人だと思ってんだけど。俺は」
 鈍くて女の扱いなんて解っていないような奴だと言うのに、修一はこういう事だけは全く臆面もなく言ってのける。その言葉と堂々とした態度に、凛太郎はやはりドキドキしてしまう。
「か、かわっ、び、びじんて…………」
「なぁ、俺、リンタの事ほんとに好きだってば。溺れてる。これからも心変わりなんてしないって」
 これから先の何十年後かなど、高校生にとっては先の先、見えない未来だ。ちょっと先の未来さえ想像も出来ないのに、簡単に心変わりしないとは言えない。普通なら先の事なんて解らない、人の気持ちは変わる、と言うのかも知れない。しかし凛太郎に取ってその修一の決意のようなものが、強く心を揺さぶった。下手をするとあと60年位一緒にいる可能性があるけれど、修一とならいいかなとも思ってしまう。
 自分から怒っていた事だというのに、凛太郎は話をはぐらかそうとする。
「お、溺れてるって、何に? えっちにじゃないの? さっきだって足見てた」
(何だか話がループしてんな)
 修一は同じような話を朝からずーっとしている気がする。
「しょうがねーだろ。リンタの事丸々好きだから、色々見たくもなるだろ? な、リンタの前で他の女のコの事言わないって約束するから。機嫌直してくれよ」
「僕は別に機嫌悪くないし、嫉妬もしてないし。でも修ちゃんがそうするなら別に止めないよ」
 僕は不承不承承諾してます、そんな雰囲気を漂わせながら、凛太郎が答えた。実際には、強引に自分の方を向かせている気にもなってしまうけれど、修一がそうしてくれるなら嬉しいと感じてしまっていた。
「おお、そうするって」
(でも髪は長い方がいいかもな)
 心の中ではそんな事を考えている修一に、漸く機嫌を直した凛太郎が帰宅の途に着こうと急かしていた。

 * * * * * * * * *

 結局修一に送ってもらい、凛太郎が家に辿り着いたのは7時ほどとなっていた。まだ千鶴は帰宅していなかったから、一人で食事を採る事も考えたけれど、身体のダルさもあり千鶴の帰りを待つ事にした。
 マッサージの効果も既に切れたのか、腰も痛い。自室で寝転んでしまおうと思っていたけれど、二階に上がるのも億劫になり、そのまま制服も着替えずに居間のソファにぽてっと横になってしまった。
 一人ぼっちでいると、余計な事まで考える時間が出来てしまう。自分の事、修一の事、周りの事。修一に言われた嫉妬と言う言葉。全く自分では思っても見なかった事だった。自分以外の人間が修一の傍にいると言うのは当たり前の事だったけれど、彼の口から具体的な女性の名前が出るのは、笑以外では初めてだったのかも知れない。修一の頭の中には常に自分だけがいる、そう思い込んでいた自分が愚かしいと思う反面、それが女の子の心境なのだろうか、と思ってもいた。そう、色々な小説では、主人公に女性が怒っているではないか。「あたしを見ないで他の女を見た」と。だとすれば、今の凛太郎は確実に女の子の心理になっている。自分ではまだ男の部分がある、そう思っていても、着実に階段を登っている。好む好まざるとに拘らず強制的に。
 お前はもう女なのだから、男を好きになれ、そう誰かに言われているような気もしてしまう。唆しているのはやはり魔物なのだろうか。いつの間にか魔物の言葉に雁字搦めにされて、実は好きだと言う自分の意思も捻じ曲げられていて、本当は男なんかと、それがたとえ修一であっても、好きあう気はないんじゃないだろうか。
(僕の好きって言う気持ちも本物じゃないんだったら、僕ってなんだろう。ただ、魔物にいたずらされる為だけに存在してる? 修ちゃんのえっちの対象ってだけ?)
 凛太郎は我ながら馬鹿な考えを展開していると思っている。「好き」と言う事を決めた前後は、魔物も来ていなかった。自分で決めて自分で言った言葉。そこに第三者は介在していない。それだけは「本物」なのだ。その筈だ。
 でも気になる事もある。あらゆる人間の夢に存在し、人を操る事が出来るあの魔物ならば、凛太郎も含めて千鶴も修一も笑も、学校の先生たちでさえもコントロールしていたのではないかと。女性化して最初に登校した日の夜感じたもの。それと同じ感覚が凛太郎の胸に去来していた。
 少し身体が冷えてきたのか下腹もしくしくと痛みが出てきた。ソファに仰向けに横たえていた身体を、重そうに横に向け身体を丸める。痛みが引く訳では無かったが、膝を抱えるようにしていると何となく気分が落ち着くようだった。
「お母さん、早く帰って来ないかな……」
 初めて味わうダルさと痛みに不安な気持ちになりながら、ゆっくりと目を閉じていた。暫くすると穏やかな寝息が微かに聞こえていた。

 * * * * * * * * *

 玄関の開く音がした気がする。凛太郎の耳に「ただいまー」と千鶴の声が聞こえていた。中途半端な時間に寝入ってしまった為か、少し頭の奥がずきずきしていた。
 パタパタとスリッパの音が廊下から居間の方へ近づいて来る。
「凛ちゃん、ただいま。あら? 具合悪いの?」
 覗き込んで来た千鶴の顔が笑顔から一転して曇る。その表情の変化をぼーっとしながら凛太郎は見ていた。
「……身体ダルくて。腰痛いし。あ、ごめん、ご飯の用意してないよ」
 近づいて来る千鶴の方を向き、むっくりと身体を起こす凛太郎の顔には、細い綺麗な髪がはらはらと纏わり付き、頬にはソファの痕が付いていた。
「ご飯はいいから。レンジで温めればいいし。それよりダルいって? 腰も?」
 千鶴はそのまま、というジェスチャーを見せ、凛太郎の額にぺたっと少し冷たい右手を置いた。熱っぽくはないけれど、凛太郎の表情は確かにダルそうだった。
「…………お腹は痛くないの?」
 何事か思い当たるフシでもあるのか、千鶴はあごに手を置きちょっと考えてから眠そうな顔の凛太郎に尋ねる。
「ん、少しだけど。学校で修ちゃんに腰揉んでもらったら随分楽になったのに、帰ってきたらやっぱり痛くなっちゃった」
「修一君に? 腰を? 凛ちゃん、お母さんこないだ言ったよね。男の子に無闇に身体を触らしちゃダメだって」
 いきなり不機嫌モードに入ってしまった千鶴に、凛太郎のトロンとした意識が素早く覚醒する。
「え? あ、でもさ、好意でしてくれただけだから。修ちゃんだよ? 別に触られても平気だし」
 凛太郎の言葉に千鶴は不機嫌モードの上に、眉を吊り上げる。大事な話をしようとしていた千鶴だったが、そんなのはもうどこかに行ってしまっていた。何しろ話の流れが悪かった。男に触らせるなと言う言いつけを違えただけでも大変だと言うのに、そんなの平気、と言っているのだから。
「凛太郎、言ったでしょう。たとえ修一君でも男の子なのよ。あなたは今女の子なの。彼がどんなにいいコでも、男の子って女の子に興味を持ってしまうのよ。あの人の事も知ってるでしょう? 極論すれば、ああいうのが男なのよ。凛太郎が知ってる彼じゃない、……なんて言うか……、違う修一君がいるのよ」
 凛太郎も千鶴の話は何となくだが解る気がした。いつも優しく接してくれる修一ではあったが、えっちが絡むともうそれだけで、凛太郎の気持ちなどお構い無しになってしまう。しばし考え込むような素振りを見せる凛太郎に千鶴が突っ込みを入れた。
「なに? そんな事があったの?」
 千鶴の目がギラリと光る、筈は無かったが凛太郎の心象はそんな感じだった。修一の印象が悪くなるのはまずいと思い、凛太郎がすかさず言葉を繋げる。
「ん? 違うよ、修ちゃんてそんな事しないよ、お母さんも知ってるでしょ。それに僕たち付き合っ……………………………………なんでもない……」
 千鶴に対して自分は男だから男に戻ると言っていたのに、その男である同性の修一と付き合ってるなどと言うのは気恥ずかしい気がしてしまう。ましてや今はその対象の人物の評価に係る話をしている時だ。いくら千鶴が凛太郎に甘いと言っても、諸手を挙げて祝福、という事はないだろう。そんな事を意識した凛太郎は、言葉を濁していた。
(今はあんまり刺激しない方がいいよね。不機嫌モードだし。怖いし)
 千鶴に表情を読み取らせまいと俯く凛太郎に、千鶴もそれ以上は続けなかった。多少、気になる事は耳に入っていたけれど。
「とにかく、凛ちゃんは女の子としての意識が低すぎだから。触らせない、二人にならない、暗いところは歩かない。これは守ってね。はい、じゃぁ晩御飯にしよっか」
(あら? なんか大事な事を言い忘れていたような……)
 千鶴はそんな事を思いながらも、立ち上がりキッチンへと向かった。凛太郎も伸びをしながら後を付いていった。

 晩御飯は千鶴が朝作り置きしていたオカラのハンバーグにサラダ、お味噌汁、ご飯。もう一品増やす予定が凛太郎が作っていなかった為にコレだけになった。それを千鶴はペロリと平らげていたが、凛太郎は少し食欲が落ちていた。
 千鶴が凛太郎に生理の話をしようと思っていた事を思い出したのは、ベッドに入ってからだった。
(あ、あのコの症状って生理だって言ってなかったかしら。ん〜、今日から調子悪いならまだ明日は大丈夫かな。買い置きもあるし。明日はフレックスだし、朝話しをしましょ。うん)
 凛太郎は今日から痛い、とは一言も言っていないし、実際には昨日からだ。今日からというのは千鶴の思い込みだ。意外とノンキな千鶴だった。

 * * * * * * * * *

 凛太郎の目の前には、黒い広い海が広がっている。どんよりとした空模様は見ているだけで気が滅入ってしまいそうな程だ。周囲を見てもそこはただの砂浜。黒い海が波を黒い砂浜に打ち寄せ、引き戻している。肌寒いようなその場所に佇んでいると、自分が裸であった事に気づいた。けれど恥かしいとか見られないようにするという意識は芽生えなかった。
 自分の両手で肩を抱くようにしていると、砂浜にずぶずぶと足が沈んで行く。凛太郎は慌てふためいてその場所から逃れようと必死に走った。走ったけれど、どんなに前傾姿勢をとっても前に進むスピードは上がってこない。
「ああっ、足が埋まっちゃう!」
 そのまま海岸沿いを走っていくけれど、凛太郎の前傾姿勢が、砂浜にその形良い乳房が付く位までの角度を持っても前に進む速度は上がらない。一歩一歩が粘りつくような重さ。そして足が着いている時間が長い程砂浜は凛太郎の足を飲み込んでいく。
 たった10mかそこらの岩場までが数百m、いや、数キロにも感じられていた。
 ふと凛太郎が足元を見ると、黒い砂浜は既に凛太郎のまっすぐな脛の辺りまで覆い尽くしている。
「わっ、離せっ、やっ、お母さんっ、修ちゃんっ、僕食べられちゃうよおっ!」
 喚き、もがき、暴れるけれど、そのどれも凛太郎に纏わりついた黒く重い砂は離れようとしなかった。反対にもっと深く凛太郎の足を引き込んでいく。
 打ち寄せる波に向かって必死に手を伸ばし、砂浜を掻き毟る。しかし砂浜は容赦なく、凛太郎の華奢な下半身を飲み込んでいった。腰まで。ずっぽりと。
「沈むぅ。助けてっ、修ちゃんっ、助けて!」
 ずんと腰に響くような痛みと、お腹の疼痛。砂が身体を締め付ける度にズクズクとした痛みが表れる。
 砂浜には幾重にも重なった凛太郎の指の跡が見える。ずるずると引き込まれていく海水が指で掘った砂浜に流れ込んできた。しかし先程まで海水だと思っていた打ち寄せる波は、生臭い血の匂いがした。黒だと思っていた色も、実はどす黒い赤。そう、ネットリとした血が広大な海を形成していた。
 その咽返る臭いと絡みつくような感触に胸が悪くなりそうだった。腰から腿にかけて生温かい感触がジワリと広がっていく。
 血の海に身が包まれていくと、益々下腹部の痛みが増してきていた。黒い砂とドロドロの血の海。凛太郎はその中に静かに沈んで行った……。

 * * * * * * * * *

「……お腹痛いよぉ……」
 引き攣るような痛みに、凛太郎は目を覚ましていた。カーテンの隙間から洩れてくる日の光も、普段は清々しいと感じるというのに今日は眩し過ぎる。夢の中の風景が暗かったせいなのか、気分までも沈んでいるようだった。
(やな夢見たな)
 そんな事を思いながら、眠い目を擦りつつベッドから身を起こそうとした。その時、下半身がヌルついている事に気がついた。
(えぇ? ……濡れてる?)
 疼痛から鈍痛へと変わったお腹を少し気にしながら、凛太郎は大きく掛け布団を剥いだ。
「な、なにこれ? 血? ってどこから? なんで? え? え?」
 パジャマのズボンも、シーツも、掛け布団にも所々、血がこびり付いている。一瞬の内にその血がどこから来たのか解らない凛太郎は、パニックに陥って大声を叫んでいた。
「お、おかあさんっ、血がっ、たくさんっ! おかあさんっ!」
 朝起きたら大量の血が出てました、という状況だったら誰でもパニックになってしまう。ちょっとの知識と夕べの内に千鶴が一言注意を喚起していたら、これ程までの醜態は見せなかっただろうけれど、男にとって生理とは未知のものだ。大体、男は血に慣れていない。余程の喧嘩好きでも下半身からの出血など、普通は経験する事は無いだろう。ましてや凛太郎は荒事などするタイプではないし、やんちゃな幼少時代を過ごした訳でもない。必然的に血が出るシチュエーションには殆ど巡りあっていなかった。
 その為か、凛太郎は出血の原因を確かめる事が出来なかった。怖くて。その血がどこから出ているのかなど、もし寝ている間に刺されでもしていて(あり得ないけれど)、何かとんでも無い事になっていたら。そう思う程にズボンの中を見る事も、下半身を触る事さえも出来ずにいた。
 おろおろと慌てふためく凛太郎の声に、千鶴が階下から慌ててやってきた。
「凛ちゃん!? どうしたのっ? ……あら?」
 千鶴の目に飛び込んできたのは、ベッドの上で情けない顔をして半泣き状態の凛太郎と、赤く染まったシーツだった。
「お母さん、血が、血が……」
 素早く千鶴が凛太郎の様子とベッドを観察すると、ベッドの上に佇んでいる凛太郎をきゅっと優しく抱きしめていた。
「……凛ちゃん、大丈夫。病気じゃないし、怪我でもないから。……生理、来ちゃったね。昨日、言っておけばよかったわね」
 柔らかな、ふかっとした千鶴の胸に顔を埋めていた凛太郎が、ぐっとその身体を起こし困惑した表情で千鶴を見上げる。
「せ、せいりって、女の子に来るもんだよ? なんで僕にっ?」
 生理なんて言葉は男にとっては恥ずかしいのか、凛太郎は顔を赤くて、思わずどもってしまった。おまけに自分が女の子の身体だという事も置き去りになっていた。
「今は、女の子でしょう? 病院でも全部揃ってるって言われたでしょ。もう一ヶ月だし、昨日は腰もお腹も痛いって言ってたから、お母さんももしかしてって思ってたんだけど……。もう少し後かと思ってたの。ごめんね、びっくりしたね」
 もう一度優しく凛太郎を抱き、そのサラサラした髪を撫でる。まるで小さな子どもに言うような口調ではあったけれど、凛太郎は心地よく感じていた。
「さてっ、仲良し親子ごっこはお終い。凛ちゃん、シャワーいってらっしゃい。湯船にお湯溜めながらよ。ちゃんと浸かる事。特に腰は良く温める事。お母さんはこっち片付けるから。それが終わったら使い方講習するわよ」
 急に声のトーンを変えテキパキと指示を出す千鶴。凛太郎はその指示に当然の疑問を投げかけた。
「で、でもお風呂入ったら血だらけになっちゃうよ? ……その、血が、アソコから出てるでしょ……。それと使い方ってなに?」
 凛太郎を立たせそのまま既にシーツの取替え作業に入っている千鶴が振り返った。
「あー、平気平気。湯船の中だと出てこないから。あ、でもそれ以外だと出っ放しだからね。お風呂上がったら古いタオルで拭って頂戴。それと固まり出てくるかも知れないけど、驚かなくても平気だからね。使い方って、ナプキンとかタンポンの。必要でしょ?」
 何か嬉々としている千鶴何事か言おうと思っていた凛太郎だったが、股間とお尻の気持ち悪さに負けて浴室に向かった。

 凛太郎が浴室から出ると、千鶴が待ち構えていた。少し大き目のショーツを持って。
「はい凛ちゃん。これ穿いて。ちょっと位置がわからないからお母さんのと同じようにしたけど」
 見るとナイロンぽい生地のショーツに大きく布が縫い付けてある。クロッチの部分には、見慣れない白いものが貼り付けられていた。
(あ、これって……。な、ぷきん、てヤツ?)
 お風呂で良く温まった身体が、もっと熱くなってくる気がしていた。普通の高校生くらいの男なら見た事などないだろうもの。勿論CMでは見た事があったけれど、実物は初めてだ。それに自分で使うなんて思っても見なかったのだから。
(意外……。こんなにおっきいんだ……)
 千鶴が着けたナプキンは某社の多い日の昼用。凛太郎や千鶴の足の大きさ位ある。でも多い日の夜用なんてもっと大きいから、今日の夜は凛太郎の予想もしないモノが見られるだろう。
「はいはい、止まってないで早く穿いて、服着なさい。身体冷えちゃうでしょ」
「あ、うん。でも、お母さん、ちょっと出ててよ。恥ずかしいんだけど……」
 大き目のバスタオルで身体の前を隠して、もじもじしながら言う凛太郎に、千鶴も「あら、そうね」とばかり踵を返して出て行った。と。
「おはよーございまーす。あ、千鶴さん。今日もいい天気ですよ。まだ梅雨には入ってないですね。リンター、早くしろよー」
 いいタイミングで修一が迎えに来てしまった。いつも迎えに来るのだから当然なのだけれど、今朝に限っては修一の存在をすっかり忘れていた。別に裸を見られている訳でも、生理だとばれている訳でもないのに、急に恥ずかしくなり、その場でしゃがみ込んでしまう。声も出せない。まるで声を出すとそれが解ってしまうかの様に思える。息を殺して修一の気配を感じ取ろうと、変な努力をしていた。
「あのね、修一君。ちょっと凛太郎遅れて行くから。悪いけど先に行っててくれるかしら」
「え、リンタ具合悪いんですか?」
 途端に修一の表情が曇る。
「ちょっとね。でも直ぐ治るから。心配しないでいいわよ。じゃあまたね」
「え、あ、千鶴さ……」
 修一は、取り付く島もない千鶴の物言いに、ただならぬ雰囲気を感じてしまうが、玄関を閉められてしまってはどうしようもなかった。振り返りつつ、一人寂しく学校へ向かって行った。
「ふう」
 脱衣所で軽い溜息を吐く凛太郎。
(なんかすごいびっくりしたぁ)
 ドキドキした面持ちのままゆっくりと立ち上がって生理用ショーツを穿く。敏感な部分に当たる感触が新たな感覚を生んでいる。
(変な感じ)
 いつもとは違う感覚に余計に「そこに何かある」と意識してしまう。そんな意識を振り払いつつ、凛太郎はいそいそと服を着始めていた。
 なんだかんだと凛太郎が赤くなったりしながら千鶴から生理用品の使用レクチャーを受け、家から出ようとしていた時には一時間目の中ごろとなっていた。
「あ、お母さん、自転車なんだけど……」
 スカートの時も気になっていた自転車。今日もやはり凛太郎の議題に上がってきていた。ナプキン着けたまま乗ってサドルでずれたりしないのだろうかと。その疑問を出社の用意をしている千鶴にそのままぶつけてみる。
「え? んー、お母さんは気にした事無かったけど。普通に乗ってる時は全然意識してなかったし。最近のは横漏れガードもあるから運動しても大丈夫よ。そんなに気になるんだったら栓しちゃえばいいの。使い方は覚えたでしょ?」
 栓、なんて言われると、凛太郎は途端に顔を真っ赤に染め上げてしまう。機能的にはそのまま入れて使用するタンポンの方がいいのは解っているけれど、身体に異物が入ってくる感覚が嫌だった。尤も修一の指も「修一」も異物には違いないけれど。それに濡れているのと経血がついているのでは何か違う感じがしていた。同じようにヌルヌルしているのに、経血だと指より細い筈のアプリケータの入り具合は少し固い気がするのだ。
「や、あれは、ちょっと……、ヤダ」
 凛太郎は諦めたように「はぁ」と溜息をついた。
「そんなに心配しないの。女の子だったら普通だし」
 と、ここまで言って、最後の一言は千鶴も流石に言えなかった。「これで赤ちゃんも産めるようになったんだから」というフレーズ、息子には相応しくない。お祝いしましょうなんて口が裂けても言えない言葉だとちゃんと認識している。
「ほら、元気よく行ってらっしゃい。お薬飲んでるから眠くなるかも知れないけど、お腹痛いのは収まったでしょ」
 極力明るい笑みをその童顔に湛えて、千鶴はとん、と凛太郎の背中を軽く叩いて、登校を促す。凛太郎も仕方ないとばかり、可愛らしい口元に笑みを浮かべた。
「じゃぁ、行ってきます……」


(その3へ)


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