好きよ好きよも今のうち(011 - 015)

作:夏目彩香(2003年7月1日初公開)

011

ここは地下鉄駅の噴水前、恵美と祐介はこれからのデートをどうやって過ごすのか決めようとしていた。もちろん祐介には恵美が本物の恵美では無いことなんて知るはずもない。この近くにある映画館でも行こうか、それとも喫茶店で話でもするのがいいのか、祐介は実は優柔不断の男のようでなかなか決まらない。恵美は祐介に一任することにしていて、わざと困らせているようだった。

噴水の時計の長針が6を指そうとしている。まだどこに行くか決まらない。実は祐介は恵美に会う後のことを全然考えていなかった。恵美の行きたい所に行けばいいと気楽に考えていたのだ。自分の意思よりも周りの気持ちに流されやすい男だった。

そんなことをしているうちに、噴水の前に立っている二人に迫ってきている人物がいた。しかし、二人はまだ気づいていない。二人のことをさっきまで物陰に隠れて観察していたようだが、じれったくなって近づいてきたらしい。

長針は7を過ぎていた。祐介はここに1時間以上も滞在していることになるのだ。恵美がここに来てからも30分。同じ場所でずっと立っているせいもあってか、恵美は足が疲れてい来ているようで、何度も足を組み直している。ハイヒールの影響もあってかすっかりくたびれた様子だ。

「祐介さん。どこでもいいんだけど、まだ決まらないの?」
「恵美とは初めてのことでせっかくだから、どこか良い場所に行こうかと思って、考えているんだけどなぁ。なんかどれもこれも今ひとつパッとしなくて……」
「そんなぁ。。。祐介さんって見た目に似合わず神経細かいですね」
「まぁ。そんなとこ」
そう言いいつつも、まだどこへ行きたいか思いつかない祐介はかなりイライラを募らせていた。
「じゃあ、私が行きたいところにしましょうか」
「そうするか」
と言ったあとで間髪入れずに祐介が続けた。
「と言いたいところだけど、やっぱ俺が決めないと……」
恵美の顔にはあきらめの表情と足の疲れのピークが来ているようだった。

恵美は周りを注意しながら手を使って足をもみ始めた。そして、どこか座るところが無いのか探していた。遠くの方にピントを合わせているうちに、祐介を見ている一人の人物がいるのに気づいたのだ。

「あれっ?誰かしら。私以外にも祐介さんのファンがいるみたいよ」
恵美は体を立て直してから祐介に耳打ちをするようにして言った。
「えっ?」
デートの行き先を考え続けている祐介は、恵美に言われた方を向いてみた。しかし、人影すらどこにも見あたらない。
「どこだって?」
「だから、あそこにいるんだって」
二人の意見はなかなかかみ合わないようだった。そして、ついには恵美でさえもその人影を見失ってしまったのだ。

「結局、誰もいないじゃない」
「おかしいなぁ。さっきまであそこに見えていたのに、わ・か・い女の子だったよ」
恵美はわざと若いを大きい声で強調して話して来た。
「そんなのいるわけ」
そこまで言ったところで、祐介は急に前を見ることができなくなった。誰かの手が祐介の目を隠していたのだ。
恵美は祐介の後ろにいるのがさっきの若い女の子だとすぐに理解した。恵美はわざと祐介を助けようとしない。
「祐介さん。やっぱり、私以外にもファンがいたのね」
「そうじゃないだろ」
祐介は少し怒った口調で恵美に言う。そして、目隠しをして来た人物を確かめようと、目隠ししている手を振り払って、一気に後ろを振り向いたのだ。

そこにいたのは、祐介のとてもよく知る人物。妹の絵奈だった。
「えっ!?お前。プールに行ったんじゃ」
そこまで言うと、それ以上の言葉は喉から出て来なくなっていた。

012

絵奈の出現は祐介はもちろん恵美にとっても予想外のことだった。そもそも絵奈は毎週土曜日は友達と一緒にプールに行くのだ。祐介は絵奈が誰と会ってるのか気になっていたのではと予想していた。

喉から言葉が出なくなった祐介の変わりに恵美が言葉を出した。
「あなた。誰なの?祐介さんに慣れ慣れしいようだけど」
「祐介さん?はぁ〜ん。そっか、待ってた人ってあなただったんだ」
「何よ。年の差がずいぶんとあるのにタメなんか使って」
恵美は目の前の女の子に対してすっかり気分を害す。いや、害したふりをしてる。
「いいじゃないの。あたしの格好いいお兄ちゃんを守るのは、あたしの役目だもの」
「えっ?あっ。」
恵美は表情では騙されたような顔をしているが、内心してやったりと思っていた。
「そっか。あなたが妹さんなのね」
「妹さんだなんて。あたしには絵奈って名前があるんだからね。五十嵐絵奈って立派な名前があるんだからさぁ。妹さんだなんて呼ばないでよ」
すると恵美は、さっきまでの警戒したような表情を一気に和らげた。
「そっか。わかったわ。はい」
そう言うと恵美は自分の右手を絵奈の前に差し出す。
「何よ?」
「握手しよって。私は後藤恵美。よろしくね」
絵奈は少しためらったが恵美の手を握った。恵美のすべすべした肌を触ると早く大人になりたいと思ってしまう。
「あたしもよろしく。絵奈って呼んでよ」
「祐介さんの妹なんだから、恵美って呼んでいいわよ」
「それって、ちょっと恥ずかしいじゃん」
絵奈は案外照れ屋さんのようだ。
「いいのよ。今度、一緒に買い物したりしない?それに、化粧道具も貸してあげる」
この言葉を聞くと絵奈の表情が一気に恵美のものになった。
「えっ?いいの?恵美。恵美の使ってるのって高い化粧品でしょう。こんな小娘に貸すような代物じゃ無いじゃん」
「いいの、いいの。うちの会社の取引先からたくさん持ってきてくれるんだから」

女二人が話をしている間、祐介はまだ言葉を失っていた。いや、二人の会話に入り込めない様子だった。
「じゃあ。今度、ゆっくり相談とかのってくれます?」
「もちろん。私の妹みたいな存在だものね」
「やったぁ。あたし、昔からお姉ちゃんが欲しかったんです。いつも、あんなお兄ちゃんを見てばかりで、お兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんが欲しかったって。」
「そっか。私も兄しかいなかったからね。気持ちわかるわよ」
絵奈はすっかり恵美に気持ちを許せるようになった。
「じゃあ、あたしと恵美で姉妹同盟でも組まない?」
「姉妹同盟?」
「だからぁ。義理の姉妹として誓い合うって、それだけじゃん」
「あっ。そうか」
恵美は妙に納得してしまった。
「そう言えば。恵美って何歳?」
「25だけど」
「お兄ちゃんとタメなのね。あたしは18歳で女子高通ってる」
絵奈がそれを言うと、恵美は目を疑った。
「女子高生なの?女子大生かと思ったわ」
「ははぁん。最近の女子高生って、制服着てないと簡単に女子大生に化けられるのよ。そんなの常識じゃん」
「あたしの時はルーズだって無かったもの。わかるわけないよ〜」
「いわゆる、ジェネレーションギャップですね。はい」
恵美はそう言う絵奈を軽く手で叩いた。
「そんなこと言わないの。私だってまだ若いんだから」

二人の会話が少し収まったとき、ようやく祐介が言葉を発して来た。
「何、ぶつぶつ話しているんだよ。ともかく、絵奈。どうしてお前、プール行かなかった?」
正気を取り戻した祐介はいやに冷静に話してくる。絵奈は恵美の方から祐介の方へ体を向き直して言った。
「あっ。プール行ったには行ったよ。でも、臨時休館日だって帰ることにしたの」
「じゃあ、そのまま家に帰ればよかっただろう」
絵奈は手を後ろに回し、両手をつなぎながらゆらゆらした格好で祐介と話をしている。
「だって〜。ここに来たら、まだお兄ちゃんがいるんだもの。しかも、隣に女まで連れちゃってさ。気にならないわけないじゃん」
「そんなのは、気にしないで放っておけばいいんだぞ」
「女の気持ちはわからないでしょ。お兄ちゃんはねぇ。たとえ性格が悪くても格好いいところあるから。これでも嫉妬するんだって」
「お前、馬鹿か?俺とお前は兄妹なんだぞ。恋愛の対象とは違うだろ」
この時、恵美はトイレへ行くと言ってここをさっと離れて行ってしまった。
「でも、そんなのがあるよ。お兄ちゃんのことずっと気にして来たんだから」
「気にしてもらわなくてもいいよ。俺は俺、お前はお前だろ?」
「いいよ。お兄ちゃんのわからずや!」
「こらっ。お前、そんなこと言うなって。」
「私、お兄ちゃんのこと心配だっただけじゃん」
絵奈のさっきまで威勢のいい声はもう無くなっていた。
「わかった。わかった。俺がわるかったよ」
「それならいいわよ。相手が恵美のような人でよかった。あたしのお姉ちゃんみたいで安心したから。これからは、お兄ちゃんより頼りになりそうよ」
「おいっ。俺とつきあうのだってまだ日が浅いんだからな。恵美を取るようなことはするなよ」
絵奈は勝ち誇ったような顔を祐介の目の前に持ってきた。
「わかったならいいわ。あたしが恵美と仲良くなるのだって、お兄ちゃんのためになるんだからね」
「わかってるって。だから、今日は二人きりでデートをしたいんだ。さっさと帰ってくれよ」
「わ・か・り・ま・し・た。邪魔者は消えることにします。あたしもトイレ行きたくなったから、恵美に挨拶して帰るね。」
そう言うと絵奈はトイレのある方角へと消えていった。

013

ここは地下鉄駅にある公衆トイレ、公衆トイレとは言っても最近はすさましいほどに施設が豪華だったりする。日本トイレ学会のトイレ100選にも選ばれているトイレで、特に女性用は充実したつくりだ。

絵奈と祐介の話の途中で抜けて来て、恵美は女性用トイレに入った。公衆トイレに入るのはこれが初めてのこと、文恵の体を使って会社のトイレにも入ったが、やはり見知らぬ人が使う環境だけに違った刺激を受ける。

個室が8つ並んでいる中で、一番奥の個室に入った。ドアが開いていたので、ノックをしなくても誰も入っていないのが確認できた。今までも何度かやって来たように、まずは便座をトイレットペーパーで拭いてから座る。恵美になってからどうやら恵美の感覚が優先されるので、便座を拭かないと気持ち悪いと感じるようだ。

次に、スカイブルーのHラインスカートのホックを外し、膝の上まで引っ張る、同時にショーツとストッキングも一緒におろした。これでようやく用が足せる状態。力を入れないでも自然と流れて来た。トイレットペーパーを小さく取ると力を入れないように軽く拭き取る。あとは、そのまま便器の中に紙を落として、水を流した。

そして、立ち上がって、下着をしっかり履いてから、スカートを腰まであげてホックをかけた。ここで、恵美は個室から出るのでは無く、また便器の上に座ったのだ。ハイヒールを脱ぎ、足をもみ始めた。さっきしばらく立っていたのが効いているらしい。足が痛くてたまらないのだ。

「ハイヒールが、こんなに足を痛くするなんて知らなかったぜ。恵美の奴、よくこんなの買うよなぁ。まぁ、今は俺が恵美だから、恵美の気持ちからすると買いたいのはよくわかるけどな。せっかくだから。」
恵美は個室の中で独り言を始めていた。もちろん、誰にも気づかれない音量で喋っている。恵美は足を空中に浮かせたまま、ハイヒールを手に取った。そのまま自分の鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。恵美の靴の匂い、なんともたまらない香りだと恵美は思った。

ハンドバッグの中から本物の恵美の入った小瓶を取り出し、地面に垂直に置いた。中の恵美は驚いた顔をして、恵美の方を見ている。短くなった髪型、手にはハイヒールを持ち匂いを嗅いでいる姿をまじまじと見せられたからだ。中にいる恵美は泣きそうな顔をしていた。

恵美はハイヒールを地面に起き、その上に足を載せた。そして、小瓶の蓋を持ちながら「同期」と唱えると、たちまち小瓶の中にいる恵美の頭はショートでウェーブパーマのかかった髪型になってしまった。そう、外にいる恵美のスタイルに同期してしまったのだ。これには小瓶の中にいる恵美は涙を流さずにはいられなかった。苦労して延ばした髪が一瞬にして短くなってしまったのだから。

恵美は本物の恵美が見せる行動を楽しんだ後、再びバッグの中に小瓶をしまった。ハイヒールをしっかり履いてから、個室の外へと出る。洗面台の方へ行って手を洗いながら、目の前の鏡を見ながらニヤニヤしていた。

そう、恵美の頭の中は、絵奈のことで頭がいっぱいになっていたのだ。どうにかして絵奈を小瓶に入れてしまいたい。しかし、今は小瓶は一つしか無いために一度元の体に戻らなくてはならないのだ。

そんなことを考えていると、絵奈がやって来た。
「恵美。あたしこれから帰るからね。お兄ちゃんとデートして来て」
「うん、絵奈。わかったわ。」
すると絵奈と恵美は携帯電話の電話番号とメールアドレスの交換を始めた。
「いつでも電話してね。困ったことがあったら私が相談にのってあげるから」
「わかった。何かあったら恵美に相談する。お兄ちゃん頼むね」
恵美はとりあえずデートを楽しむことにし、絵奈とこの場で別れた。

014

一人になった祐介は相変わらずデート先を考えていた。今度はしっかりと決めようと携帯電話を取り出し、友達の一人に電話する。最初の電話はつながらなかったようで、今度は違う番号に電話をかけた。今度はしっかりとつながって友達にデート先でいい場所がないか聞いていた。

電話をかけ終えた時、ハイヒールをコツコツと鳴らしながら恵美がやって来た。音が止まないうちに、祐介が恵美に駆け寄って、さりげなく地下街の方を目指して歩くように促した。祐介は恵美の腰に手を回すと、恵美も同じようにやってくれた。ようやく二人のデートが始まるのだった。

地下街には色とりどりの色彩が飛び交っている。それでも週末にしては人混みは少なかった。祐介の目は周りを歩く女性の姿を彷徨っていたが、恵美の視線も同様に女性の姿にあった。
「あっ。あの子の服かわいい〜」
すると祐介が返事をする。
「そうそう。俺もそう思った」
そう言いながら、祐介は苦笑いを浮かべる。
「なに思い出し笑いしてるのよ〜。さっきの子が気に入ったんでしょう。わかるわ」
「そんなこと無いって。あの服をお前に着せたらもっと似合うのにって」
「そう?」
「そうだよ。そう思ったんだって」
そう言う風に話をしているうちに二人の歩幅が揃っていた。
「祐介。あのスカートどう?」
「あの子の着てる服か?」
「そうじゃなくて。あの店のディスプレイにあるスカートよ」

二人は人の合間をすり抜けながら目標とするお店へとやって来た。
「ねぇ。このスカートかわいいよ」
恵美は白いフリルスカートを見ている。
「おい。これって、少女趣味っぽくないかよ」
「いいの。こういうのが好きなんだから」
「恵美のスタイルからしたら全然違うじゃん」
「私だって、こういうの着てみたいと思ったりするんだって」
恵美の今の服装からすると、体のラインをきれいに見せるようなスタイルを好むものだと思っていた祐介には意外なことだったりする。
「ねぇ。中に入って見てもいい?」
「見るだけだぞ」
「うん」
そう言うと恵美は自分の気に入るようなスカートを探し始めた。店の奥に目をやると黄色い七分丈のワンピースが目に入ってくる。
「祐介」
恵美は店の前で立っている祐介に、こっちに来るように呼びつけた。ゆっくりと祐介は恵美の方へと寄って来た。
「なんだよ。いいのが見つかったのか?」
「そうなの。あれ」
指を指した先には、恵美が目をつけたワンピースがある。
「おっ。いいねぇ。恵美に似合いそう」
「私ねぇ。髪を短くした時に今の服装がちょっと似合わないなぁって思ったのよ」
「とりあえず、試着してみたら?」
恵美は祐介の声を聞く前からワンピースを手に取り試着室へと向かっていった。中に入る前に祐介に一言。
「ぴったりだったら買ってちょうだいね」
「はいはい。考えておくよ」
祐介がそう言うと試着室の扉が完全に閉まった。

ここは試着室の中、ワンピースに着替えるためにはまずは着ている服を脱がなくてはいけない。恵美はバッグの中から例の小瓶を取り出すと試着室の片隅に置いた。本物の恵美は目の当たりにした状況に驚いているが、これから自分の着替えを見るのだから、なんともやるせない思いだ。本物の恵美はすでに反発する意思が薄れている。そのまま恵美の試着姿を見るしか無かったのだ。

恵美はまず、ワンピースをフックにかけてから、手を腰の後ろに回しスカートのホックを外した。スカートが重力の方向にスッと落ちて行く。恵美は本物の恵美に見えるように、自分の股間部に手を当てながら、気持ちの良さそうな表情をした。

その表情を見ながら本物の恵美は、諦めのような深いため息をしているようだ。足下にあるスカートをきれいに畳むと、今度はブルーのカーディガンを脱いで畳み、スカートの上にきれいに重ねる。ブラウスのボタンを一つ一つ外すと、これもきれいに畳んでからカーディガンの上に置いた。下着姿となった恵美は、そのまま試着室の中にある大きな鏡を見ていた。

すると、鏡に向かって恵美は一人芝居をしているかのようだった。
「祐介さん。私をあなたにあげるわ」
「やだ。祐介ったらぁ〜」
鏡の目の前では右手を胸に、左手を股間に持っていった恵美がいる。
「今日は。駄目よ。私はじめてなんだから」
そうしている間、小瓶の中にいる本物の恵美は後ろを向いてしまった。
「ちぇ。もう見てくれないのかよ」
恵美はそう言って、フックにかけてある黄色いワンピースを着ることにした。背中のファスナーを開け、きれいな足を入れていく、下半身はちゃんと入ったが、背中のファスナーに手がなかなか届かない。ようやくファスナーに手が届くと、一気に首筋まであげていった。

姿見の大きな鏡を見ると、黄色いワンピースを着ている恵美が完成した。小瓶をバッグの中に閉まってから。試着室の扉を開ける。祐介は恵美の姿を見ながら、目を丸くしてしまった。
「きれいだよ。さっきよりもずっときれいになったみたい。サイズはどう?」
「私にぴったりよ。これ気に入っちゃった。欲しいなぁ」
恵美は甘えた声を祐介にかける。そのまま可愛いらしいポーズで祐介を見つめた。
「これって、高いんだよなぁ……」
「そんなに高く無いよ。背中のところに値札がついてるんだけど、見てみてよ」
「えっ。どこにあるの?背中に無いって」
「中にはいっちゃったんじゃないかな。手を入れてみてよ」
祐介が背中に手を入れると恵美の柔らかい肌の感触が伝わってくる。値札のついてる糸をたぐっていくと、ブラの位置に値札があった。そのまま引っ張り出すと、ようやく値段を見ることができた。
「2万9千円!!これってそんなにするのか?」
「安いじゃない。普通は5万ぐらいしたっておかしくないんだからぁ〜」
祐介は店員さんを呼んで聞いてみた。もちろん店員さんは恵美と同じくらいの女性だ。
「あの。これもっと安くなりませんか?」
「これですか?」
店員さんは値札を見てから言った。
「お客様。これはセール商品のため値札価格から3割引かせてもらっています」
そして、レジから電卓を持って来てから出てきた数字を祐介に見せた。
「この商品の場合は2万3百円になります」
恵美の表情は軽くなった。
「祐介、買ってくれない?私に買ってくれるプレゼントにしては安いもんじゃない」
「2万円で安いわけないだろう」
祐介は困った表情をしている。
「あなたって、こんなのも買えない男なの?私、失望しちゃうわ」
「わかったよ。これ買ってやるよ。ちゃんと覚えておいてくれよな」
諦めと同時にやけになったような感じで祐介は言う。
「うん。ちゃんと覚えておくって。祐介からもらったってこと」
「じゃあ、これ欲しいんですけど。いくらでしたっけ?」
祐介は店員さんに向かって値段を確認してみた。
「2万3百円になります。消費税を入れると2万千315円になりますが、よろしいですか?」
祐介は苦笑いを浮かべながら。
「2万円にできませんか?」
「それは、ちょっと」
そう言うふうに言い合っているともう一人の店員さんが近寄ってくる。ちょっと年が行ってるようなので、ここの店長さんのようだ。
「お客様。2万円でよろしいですよ。彼女へ初めてのプレゼントと言うことで、サービスさせていただきます」
「えっ。そうですか。ありがとうございます」
祐介は財布の中から2万円を出すと、さっきの店員さんに手渡した。すると店長さんと思える店員さんが祐介と恵美に話をしてきた。
「その服があまりにも似合ってる人、初めてなんですよ。なかなか売れなかったので、そろそろ処分したいと思っていたのですが、これから大切に着て下さいね」
「あっ。このまま着て行かれますか?」
店員さんが聞くと、恵美は首を立てに振った。すると、店員さんは背中にある値札を取る。
「着ていた洋服を入れたいので、袋をいただけますか?」
「もちろんです」
店員さんは試着室の中にきれいに畳んだ恵美の服を、店の名前がしっかりと入った紙袋に丁寧に入れてくれた。

「ありがとうございました。またお越し下さい」
二人の店員さんの挨拶を後に、二人は店を出た。
「ありがとう。祐介。これから大切に着ますね」
さっきよりも恵美の足取りは軽くなっている。
「いや。どうってこと無いって。俺が切ったんだからな。忘れるなよ」
「わかってますって」
こうやって、二人は再び地下街を歩き始めた。

015

絵奈は恵美と別れると家に向かうことにした。地下鉄の改札をくぐり、ホームに立って地下鉄がくるのを待つ。いつもは友達と一緒に家に向かうのだが、今日は一人で帰らなくてはならない、だから妙に周りの視線が気になってしまう。

地下鉄が入って来た。人は全く乗っていなくて、がらがらの車両がやって来た。時間帯が功を奏してのことなのか、絵奈は楽に座ることができた。同じ車両には数十人の乗客しかいないので、さっきまでの緊張感から解放されて絵奈は安心した。

自分の降りる駅までは30分くらいは乗らないと到着しないから、水着の入っているカバンの中からMDを取り出し、ヘッドホンを耳にかけて音楽を聴き始めて退屈な時間を過ごしはじめた。

30分後。何事も無く家の近くの駅に到着した。駅の改札をくぐり抜けると、恵美と祐介のことが気になって、電話をすることにした。さっき、恵美から教えてもらった番号に電話をかける。

その頃、恵美は祐介と地下街を歩いていた。ここの地下街は結構長くてまだまだ先が見えていない。恵美の携帯電話から着うたが流れる、恵美の好きな歌手の曲が着うたになっているのだ。小さな液晶を見てみるとそこには絵奈からの電話だと言うのがわかる。さっそく絵奈から電話がかかって来たことがわかると、すぐに電話に出た。

「どうしたの?絵奈」
「恵美。お兄ちゃんと楽しんでる?あたしは家に帰る途中で近くの駅まで来たの」
「うん。楽しいよ。さっきワンピース買ってもらったし」
「えっ!あのお兄ちゃんがプレゼントだなんてぇ。あたしには何もくれないのに、あたしの分も買ってもらうように言ってね」
「わかったわ。絵奈にも何か買ってもらえるように頑張るね」
恵美は祐介に聞こえないように小さな声で喋る。
「恵美、サンキュー。お兄ちゃんと楽しい時間を過ごしてね」
「うん。また何かあったら電話してね。メールも待ってるから」
「ばいばい」
そう言うと絵奈は電話を電話切った。

祐介がプレゼントをするなんて信じられないと思いながら、家までの道を歩いていく絵奈。やっぱりお兄ちゃんも彼女にはそれなりに尽くすタイプだったなんて初めて聞いた。前にもつきあったこ

とがあったみたいだけど、その時は高いものを買ってあげたなんて聞いたことがなかったから。

駅から絵奈の家までは歩いて10分ほど、周辺は1戸建ての続く住宅街だ。絵奈の家ももちろん一戸建て、門をくぐり抜けると愛犬のラブが出迎えてくれた。ラブは生後2年ぐらいになるオスの柴犬。絵奈がいつも世話をしているので、絵奈が帰ってくるとしっぽを余計に振り回して喜んでいる。

「ただいま〜。ちゃんと留守番してくれた?」
絵奈はその場にしゃがんでラブの目線に合わせてあげる。ラブは舌を出しては絵奈の手をなめて来てくすぐったい、そんな微笑ましい光景からはこのあとに起こる出来事が予想だにできないのだった。





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