好きよ好きよも今のうち(001 - 005)

作:夏目彩香(2003年7月1日初公開)

001

この世の中には実に様々な人がいるもの。この世に新しく登場する人もいれば、この世を去らなければならない人もいる。今日できることは今日のうちにやる人、明日でもいいと延ばす人。世の中に存在する人たちの環境は常に矛盾することばかりが取りだたされていると言っても過言では無い。

そう言うわけで、自分の人生について数多く悩み続ける一人の男がここにいる。悩みに悩んで生きているせいもあってか、いつも彼の表情は暗く、友達もほとんどいない彼。一生をこのままで終わらせてしまってもいいものかと、思うには思ってもなかなか前へ進む気力すら無いとのこと。

前向き思考が流行ると、前向きに生きたいと思うのですが、長続きせずに終わる。自己啓発の本を読んではそのたびに自分をよくしようと励みますが、3日どころか1日も持たないのが彼の特徴。とにかく精神をよい方向に持って行く持続力が足りないと言うのが、結局現在の彼を作ってしまったのだろう。

ところが、その彼に突如としてある変化が起きた。彼が生きる希望を見つけたかのごとく、毎日を楽しそうに過ごしているではないか。あれほど精神力溢れる彼を見たことがあったのか?友人がいない彼にとってその変化に一番気づくのは会社の同僚たち。会社の中でもその噂が一気に広まり、どうしてこうなったのか調査を始めることになった程。この変化は彼のこれからを、そして周辺の環境を大きく変えるものとなるのですが、その切っ掛けはちょうど1週間前にさかのぼります。

ここは彼の会社があるビル。彼の会社はここの15階にあります。そのため、昼休みが終わる時間にはここのエレベーターがものすごい混むのは有名な話でした。15階まで行くのがまるで朝のラッシュのような状態で、とても気分のいいものとは言えませんでした。

「桜井さん。桜井さん」
1階のロビーでエレベーターを待っていると後ろから声をかけられたのは、桜井文恵(さくらいふみえ)だった。モスグリーンのベストにタイトスカートと、それに肩まで伸びた髪と言ったいでたちの彼女は、先に紹介してた彼と同じ会社に勤めている。声をかけた主は柴田潤蔵(しばたじゅんぞう)と言って文恵のいる総務課の課長。
「やあ。桜井くん。昼休み終わるといつもここで会うよね。今日は彼女たちと一緒じゃなかったの?」
「えぇ。今日は恵美(めぐみ)たちとは時間が合わなくて一人で食事をしに行きました」
「えっ?一人で行ってきたの?君にしてはめずらしいよね。昼ご飯は必ず誰かと一緒に食べないと気が済まないって言ってたじゃない。入社して初めてじゃないか?」
どうやら、いつもと違う文恵の行動に潤蔵は興味津々のようです。
「課長。私だって時には一人で食べますよ。子供じゃあるまいし」
「そうか。それだったら、さっき言ってくれたらよかったじゃないか。たまには一緒につきあってやるから」
「いや、課長とはやめときますよ」
そうして、文恵は潤蔵との目線を外した。
「どうして?今度、一緒に飲みに行くのだっていいじゃないか。奢ってやるから」
「そう言われても駄目なんです」
「なんで……」
そう言っているうちにエレベーターがいよいよ到着した。
「課長。エレベーター来ましたよ。先に乗りますね」
そう言って文恵は先にエレベーターに乗ってしまった。いつもの文恵だと「課長が先に乗ってください」と言ってくれるのに、さっきから妙な胸騒ぎがしてしょうがない潤蔵だった。

エスカレーターの中には予想通り多くの人が乗ったが、いつもよりも混んでいなかった、文恵と潤蔵はエレベーターの一番奥の隅に向かい合っていた。混んでいないとは言っても文恵の胸が潤蔵の目の前に迫ってくるのはいつ見ても快感だ。潤蔵が話を仕掛けてきたのはこれを狙ってのことと言うのも考えられるのです。

潤蔵の目の前にはモスグリーンのベストを膨らませる文恵のふくよかな胸があるのだから、男性ならどんな人でも興奮してしまうものなのかも知れない。しかも、それが自分の部下だとしたら更にだ。文恵からはかすかな香水の匂いがしている。2人の間には沈黙の時が流れるが、こうしているうちにお目当ての15階へと停まりました。

エレベーターから降りると文恵は、紺のパンプスから右足を出して、前屈みをする姿勢で手を使って揉み始めた。
「やっぱり、まだこの靴慣れてないなぁ」
独り言で言ったつもりの文恵だったが、その声は潤蔵にも聞こえた。
「その靴、今も慣れてないって?やっぱ、今日の桜井くんはどうかしてるね。医務室にでも言って休んできていいんだよ」
「大丈夫です。ちょっと足がむくんだだけなので、すぐに午後の仕事を始めます」
そう言って、文恵は再びパールホワイトのストッキングと一緒にパンプスの爪先に足を入れ直した。
「じゃあ、午後の仕事頑張ろうか」
そう言いながら潤蔵は先に会社へと入って行った。

潤蔵は昼休みが終わってから席に着くときに、お茶を自分で汲んでくるのが日課だ。自然と体が覚えてしまったためか、給湯室へ入ると手際よく自分のお茶を湯飲みに入れて自分の席へと運びました。そこに座ったとき潤蔵は不思議なことに気づきました。いつもは自分から見て右側にいるはずの桜井文恵が左側に座っているではありませんか。そこの席はこの物語の主人公となる田口康夫(たぐちやすお)の席。桜井文恵が席を間違えるなんてことはするはずが無いのですが、パソコンを開いて熱心に中身を見ているようなので、何か頼まれ仕事が入ったのかと聞いてみることにしました。

「桜井さん。田口くんから何か仕事を頼まれたかい?」
そう言われた文恵は顔を真っ赤にして言いました。
「あっ、いつもの癖でついこっちに座っちゃいました。私の席は反対ですよね」
これまた桜井文恵の行動にしてはおかしな行動だった。そして、潤蔵が目を机にやると田口康夫の欠勤届が出ていた。
「おい、これって。桜井さ〜ん、田口くんはどうしたの?」
「あっ。田口さん、ものすご〜く体調が悪かったみたいで、先に帰りましたよ。課長いなかったので私が代わりに受け取りました」
「代わりにって……まぁ、いいよ。今日は桜井くんもちょっとおかしいみいたいだから、急いでやる仕事も無かったから幸いだよ」

こうやって午後の仕事がはじまると、田口康夫がいないのを除くといつもと同じような感じだった。しかし、このときから田口康夫を取り巻く環境の何かが違っていたのです。

002

こうやって午後の仕事がはじまると、田口康夫がいないのを除くといつもと同じような感じだった。しかし、このときから田口康夫を取り巻く環境の何かが違っていたのです。

午後の仕事はいつものように始まった。総務課長である柴田潤蔵はいつもよりも1人少なかったためか忙しかった。田口がやるはずの仕事までやらなくてはならなかったからだ。そんな潤蔵の目からは桜井文恵はいつものように仕事をしているように見えていた。

そうやって終業時刻を迎えた。潤蔵は今日の分の仕事を終え帰り支度を始めたが、文恵はなぜかまだ終わらないようだ。残業をするようなことは嫌いで、いつも終業時刻になるとすっと帰っていくというのに、今日はどういう風の吹き回しだろう。文恵の様子が午後になってからおかしい、何があったと言うのか?疑問になることはあっても、潤蔵は珍しく文恵よりも先に帰宅をした。

文恵が帰り支度を始めたのは潤蔵が帰ってから少しあとのことである。実は隣の会計課にいる後藤恵美(ごとうめぐみ)の仕事が終わるまで待っていたのだ。実は午後の仕事の途中で恵美からメッセンジャーで夜のお誘いが入っていた。そのために、いつもは先に帰ってしまう文恵が恵美の仕事が終わるのを待っていたという。

恵美の仕事が終わると文恵にまたもメッセンジャーで先に更衣室で着替えて欲しいとメッセージを送っていた。文恵はそれを合図に13階にある更衣室へと移動した。女子更衣室はなぜか二つ下の階にある。15階ワンフロア全部が文恵の会社なのだが、部署が多くなって社員が増えた。そのためたまたま13階にちょうどいい大きさのスペースが空いたためにそこに更衣室をつくったのだ。

13階の更衣室は男女に分かれていて女子更衣室の方が大きくなっている。女子更衣室に先に着くといつもよりも時間が遅いためもあってか誰もいなかった。するとなにやら嬉しそうな表情で自分のロッカーを開いた。どこの会社にでもある普通のロッカーだが、それを開くと、そこには文恵の私服や通勤用に使っているカバンと青色のヒール6cmのパンプスが置いてある。化粧品もここに置いてあるのだが、文恵はまずその中に入れてある小さな瓶を取り出した。

手の中にすっぽりと入ってしまいそうな小さな円筒形の小瓶だが、化粧品の試供品が入っている入れ物と同じくらいの大きさ。この円筒形の小瓶は透明な素材でできているので、中に入っているものがわかるようになっている。そんな小瓶を取り出してロッカーにある椅子の上にそっと置いた。

それから、文恵は私服に着替えを始めた。そして、不思議なことに時々小瓶の方を見ては口元を緩めて笑っていた。何がおかしいというのだろうか、文恵は私服に着替え終わると、ロッカーの入口にある姿見に映し出される自分の姿を見ながらうっとりとしていた。

「これが、文恵さんの私服姿なんだね。想像していた以上にとてもきれいだよ」
文恵は独り言を言っているのだが、さっきの小瓶に向けて言っているように見える。すると、小瓶がカタカタと揺れている音がした。

そのあとで、文恵は椅子に座りさっきの小瓶を右手に持って眺めている。中に見えるのはなんだか小さくて可愛いものだ。人形のようにも見えるがもっとリアルにできている感じがする。それもそのはず、小瓶の中にあるのは紛れもなく人間の姿だったのだ。そして、それは桜井文恵の姿にそっくりでなんと裸の状態だった。

桜井文恵

 

(絵:あさぎりさん 2003/04/03)

 

「こんな姿になっても文恵さんはやっぱり可愛いよね」
文恵は小瓶の中にいる文恵に向かって話かけている。
「この瓶は小さいけれど僕に大きな力を与えてくれたよ。まずは君を使って試したけれど。最初に餌食になってくれたので、特別にこの仕組みを教えてあげよう。まぁ、どうせ僕の正体を知らないからね」
ここまで言ったときに、携帯の着メロが鳴り出した。着メロを聞くだけで恵美からメールが入ったのがわかる。メッセージの内容は「思ったよりも時間がかかって、早くても10分かかるよ。ゴメンね。待っててくれる?」だった。すかさず文恵は慣れた手つきで返信メールを打っていた。内容は「わかった。待ってるよ」の簡単なものだった。

文恵は小瓶の中にいる文恵に軽く笑ってからさっきの話を続けた。
「君がこうなったのはもちろんこの小瓶のせいだよ。この小瓶の威力でこうなっている。もちろん僕もそうさ」
ここで文恵は呼吸を置き、話を続ける。
「最初はこの小瓶が空の状態を考えてみて欲しい。この場合は何も起こらないが、ふたを回転させて開いてからすぐそば(この定義はまだ未解明)にいる人の名前を呼ぶだけで、名前を呼ばれた人が小さくなりながらこの中に入ってしまうんだ。身につけていたものは小さくならないので、その場に残されるよ」
小瓶の中にいる文恵は恐怖と激怒によって発狂しそうな状態に見える。
「ふたを軽く閉めるだけで中に入った人は出られなくなるけれど、完全に閉めるとそのふたを閉めた人がその中にいる人に変身してしまうんだよ。完全に閉めるまではその名前を呼ばれた人は気を失っているので、隠れたところで使えば誰がやったのか正体がわからないってわけ。変身した時に服はそのままになるので着替える必要があるけれど、中に入った人の身につけていたが残されているので、それを着てしまえばいいわけだね。仮密閉と完全密閉に時間差を付ければ、いつでも好きな時に変身ができるってわけ。だから、これを使って僕は君、そう桜井文恵になったんだ」
ということで、小瓶の中にいる文恵が本当の桜井文恵だったのだ。
「小瓶の中にいる小さな文恵が本当の桜井文恵で、女子更衣室の中にいる大きな文恵は実は偽物なんだけど、誰もそんなの疑うことがないように、この小瓶がすごいのは、変身するとその人の能力も記憶も使えることだね。もちろん元の状態に戻すにはこの逆をやればいいってわけ」
そう言うと、小瓶の中にいる文恵には何をやるにも力が無くなってしまったようだ。
「あっ、そうそう。小瓶の中にいる間は何も食べなくても生き続けられるよ。シャワーを浴びなくてもきれいな状態に保たれるし、小瓶生活も結構快適なものだよね」

そう言うと、今度は携帯電話から音楽が流れてきた。
「あっ。恵美?ようやく終わったの?早く来てよ。ずっと待ってるんだから。うん、わかった。すぐに来てね」
恵美から電話がかかってきたのだ。悔しいけれど、小瓶の中にいる文恵が聞いても自分と全くそっくりだった。誰が私になりすましているのかわからないけれど、今朝まではこんなことになるなんて思っていなかったのだ。小瓶の中にいる文恵はすっかり絶望の淵まで追いやられていた。
「今日ね〜。恵美と飲みに行くの。あなたが行きたかったでしょうけど。私が行ってくるからね。とりあえずは、かばんの中に入れてあげるから、あなたも一緒にいけるわね」
そう言いながら、偽の文恵は本当の文恵が入った小瓶を自分のカバンに入れ、青のパンプスに履き替えて、あと少しで恵美が来るのを待っていた。

003

恵美が最後の仕事を終えると文恵に電話をかけた。
「文恵。今終わったところ。早く行くからね。待たせてごめんなさい」
そうやって電話を切ると階段を使って13階まで降りた。2階程度の移動はエレベーターを使うよりもずっと早いからだ。恵美は勤務を終えたばかりなので、モスグリーンのベストにタイトスカートの格好は文恵と同じだった。ただ、恵美の方がちょっとスカートの裾が短いように見える。足下に気を付けながら一段一段小走りの感じで降りて行くのだが、会社の中で履いているサンダルでは精一杯の力で駆け下りても遅くなってしまう。

そんな恵美を待っている文恵は、女子更衣室の入口にある大きな鏡の前で自分の姿を眺めていた。青いカーディガンにひざ上丈の白いタイトスカート、パールホワイトのストッキングには青のパンプスが光っている。肩まで伸びた髪は軽く赤茶色に染めているようだ。恵美は身だしなみのチェックしながら恵美がやってくるのを待っている。文恵は大きな鏡の前で何度かポーズを決めてみるのだった。そんなことをしているうちに女子更衣室のドアが開いた。もちろん入ってきたのは後藤恵美である。
「文恵。こんなに遅くまで待たせて、ごめんなさいね」
左腕にはめてある時計に目をやりながら恵美は文恵に言った。
「ん。私は全然気にしてないよ。これから恵美と飲みに行くんだから」
そう言うと、文恵は口から舌をペロッと出して笑って見せた。すると、2人の笑い声が女子更衣室の中に響いた。

恵美が着替えいる間に、文恵はトイレに行くことになった。文恵は女子更衣室を出ると、パンプスをコツコツと鳴らしながらトイレの前まで来た。赤いマークを確認してから中へ入ると一番奥にある個室にノックをして入る。文恵はふたをしたまま便座の上に腰をかける。カバンの中からさっきの小瓶を取り出すと、小瓶の中にいる本物の文恵に向かって微笑んだ。
「どうだった?恵美には本当の文恵にしか見えていないでしょう。私って完璧ね」
小瓶の中にいる本物の文恵にこっそりと話かけると、カバンの中に再び小瓶をしまい用を足した。個室から出て洗面台の前に立つと、カバンの中から化粧道具を取り出す。文恵になってから化粧直しはまだやっていなかったが、これから夜の街にでかけることを考えるとそれを意識してちょっと濃い目のメークを始めた。

メークをしている途中で誰かがトイレに入って来た。恵美が着替えを終えてやったきたのだ。ベージュのカーディガンにブラウンパンツ姿、黒いパンプスを履いた恵美は制服姿よりも大人っぽい雰囲気を醸し出している。
「文恵。私、準備できたよ。あれぇ。今日のメークはずいぶんと気合いが入ってるのね」
文恵は目元に筆を入れながら恵美に話し返す。
「そうかな?ちょっと今日は騒ぎたいだけ。金曜日の夜だからゆっくりできるでしょ」
すると、恵美も横に並んで化粧の確認をはじめた。文恵よりも長くてパーマのかかった髪の毛は茶色に染めてある。こうやって2人は夜の街へ繰り出す前に念入りにチェックをした。

トイレから出て来てエレベーターの前に立つと文恵が「下」のボタンを押した。ちょっと待っているとエレベーターがやって来た。エレベーターには恵美の上司の大塚大和(おおつかやまと)課長が一人乗っていた。
「あれっ。後藤さん。それに、桜井さんだね。夜遅くまで頑張ってるね。ご苦労様」
大塚課長は2人をねぎう言葉をかけた。
「課長は今日も残業なんですね。ご苦労様です」
「いやぁ。たいしたこと無いよ。年度末の決算が終わって、ちょっと一息ついたからね。後藤さん。もしかして今日は桜井さんと一緒に飲みに行くのかい?」
大塚課長は恵美と文恵の私服姿をじっくりと見ながら言ってくる。
「そうなんですけど。わかりました?」
こんな風に話している間にエレベーターは1階へ到着した。ドアが開いてすぐの所に3人が降り立つ。
「まぁ。2人で楽しんで来なさい。俺はもう少しやることがあるので、それじゃ」
そう言うと、1階にあるコンビニへと大塚課長は向かう。残業をする時にはいつもこうやってコンビニに行くのが日課のようになっているのだ。大塚課長がいなくなって再び2人きりになる。

1階のロビーはシーンとしている。まだ勤務時間が過ぎて1時間ぐらいしか経っていないと言うのに。ビルの外に出てからどこに行くのか話を始めたがなかなか決まらない。恵美が行きたい店と文恵の行きたい店が全く違うから、どちらかが話を譲らないと行けなくなった。強情を張ってもしょうがないので、ここは文恵が譲ることにした。
「恵美が、そんなに行きたいって言うなら恵美の言うお店にしましょう。今度行くときに私の行きたいお店に行くってことでいい?」
「わかったわ。今度行くときは文恵の行きたい店にしましょう」
こうして、2人は恵美の行きたい店に向かって足を向け始めた。

004

恵美と文恵は、恵美が来てみたかったイタリアンのお店に来ている。ここで食事もしながらお酒が飲めると言うこともあるが、何よりも店内が女性向けに作られているために、雰囲気が良くて入りやすい店だった。ここに来るまでは会社から歩いて15分ほどかかった。思ったよりも場所がわかりづらかったが、きちんとたどり着いた。

店の一番奥のデーブルに恵美と文恵は向かい合うように座るとさっそくウェイターが水を持ってくる。なかなかのイケ面の彼から「注文は?」と聞かれたが、まだ決まるわけがないので、「まだ決まっていません」と恵美がウェイターに言うと彼は定位置に戻っていった。

二人で何を食べるのか、ああでも無いこうでも無いと話ながら、恵美はアラビータ、文恵はカルボーネを頼むことに決めた。加えて二人でボトルワインを1本飲むことにした。なんとも贅沢な二人である。

さっきのウェイターに見えるように恵美が手を挙げると、さっそく彼がやってきてオーダーを取り始める。文恵はそのやりとりを黙って見ているが、やはり恵美の方が誕生日が早いせいもあって、文恵がオーダーを取る時よりも色っぽく見えた。オーダーの確認を終えると、彼はキッチンの方へと向かっていく、この間に文恵は今日ここまでの出来事を思い返していた。


そう、あれは昼休みの始まる前のこと。総務課の課長である柴田潤蔵は会議室に詰めていた時のことである。総務課には桜井文恵と田口康夫しかいなかった。田口康夫はこの時が来るのを知っていたため、ある計画を実行するために文恵に話かける。
「桜井さん。今時間あるかな?」
どことなく具合の悪そうな声だ。
「えぇ。何か急な仕事でもできましたか?」
「いや、そうじゃないけど、ちょっと風邪がひどくなったので、午後休取ろうと思ってね。課長の会議が長引きそうだから。桜井くんに頼めないかと思ってね。ゴホン、ゴホン」
そう話ながらも康夫は咳が出て仕方が無いようだった。
「はい、わかりました。田口さん大丈夫ですか?課長には私が言っておきますので、先に帰ってもいいですよ」
「うん、ありがとう。じゃあ、お先」
そう言うと康夫は昼休みが始まる15分前に会社を出て行った。

康夫が席を立つや否や、文恵は康夫の机の上に携帯電話が置いてあるのを見つけた。
「あっ。田口さん。携帯電話忘れてるじゃない」
そう言うと、隣の課にいる大塚課長へ一言、携帯電話を届けて来ると伝えると更衣室へと急いで向かった。階段を駆け下りる彼女の手には田口康夫がいつも大事に持ち歩いている携帯電話が握りしめられていた。

男子更衣室の前まで来ると、その中へ入ろうかどうか躊躇した。昼休みの始まる前の時間なのでここには誰もいない。勝手に入っても大丈夫だろうと男子更衣室の中へと足を踏み入れた。いつも自分は入ることの無い部屋なので、文恵は少し緊張している。中はロッカーが並んでいるが、入口に入ってすぐのところから見えるところに田口の姿は無かった。

奥にもロッカーがあるからと、更に奥の方へと足を動かした時、目の前の物がどんどん大きくなり始めた。いや、性格には文恵が小さくなっていたのだ。自分の着ている会社の制服もスルリと体から落ちていき、小さくなりながら全身裸になって行ったのだ。手に持っていた携帯電話も持てなくなって地面に落ちた。そうかと思っている内に、体が宙に浮き始め何かに向かって飛んで行く。そして、気を失ってしまった。

その時、康夫は男子更衣室の一番奥にいた。入口からは見ることができない場所、さっき文恵が足を踏み入れようとした場所だ。康夫は手にふたのついた小さな小瓶を持ったまま、怪しい笑みを浮かべている。その小瓶を持ったまま男子更衣室の鍵を閉めると、大きな鏡の前で自分の服を脱ぎ始めた。

さすがに裸になるのは恥ずかしいとトランクス1枚だけは残すことにした。先ほどの小瓶の中をよく見ると小さくなって全裸姿の文恵がいた。これは一体何だというのだろうか?
「こんな姿になっても文恵さんはやっぱり可愛いよね」
康夫は小瓶の中にいる文恵に向かって話かけている。
「それで、この小瓶のふたをカチッと音がするまで閉めると……」
そう言いながら、康夫は小瓶のふたがカチッとするまで閉めた。カチッと音がしたあと、大きな鏡を見てみるとなんとそこには康夫のトランクスを履いた文恵の姿があった。
「この小瓶はやっぱりすごいよなぁ」
男子更衣室には似使わない女性の声が響いた。文恵の姿に変わった康夫が小瓶の中を覗いてみると小さくなった文恵の意識が戻ったようだった。
「可愛い文恵さんがお目覚めだね」
小瓶の中にいる文恵には目の前にいるの文恵が偽物なのはすぐにわかる。小瓶の中から大きな声で叫んでいるようだが何も聞こえてこなかった。もちろん、小瓶を叩いてもびくともしないのは当然のことだ。
「いいかい。よく聞くんだ。俺が文恵でいる内は文恵さんが2人もいる必要が無いだろう。とりあえず、この中にいてくれよ」
そう言うと、さっきまで文恵が着ていた制服や履いていた紺のパンプスを見つけ、着替え始める。着替えが終わるとすっかりさっきまで目の前の席にいた文恵と寸分違わぬ姿になった。小瓶をベストの胸ポケットに入れると。
「昼休みからは俺が桜井文恵をやらしてもらうよ」
そう言って、そっと男子更衣室から出ると女子更衣室にある文恵のロッカーを開けた。文恵のカバンに小瓶を入れ、香水の瓶を出して軽く付け直すと昼休みの時間になっていたので、文恵の姿をした康夫はそのまま昼休みの休憩を取ることにしたのだ。

15階にある会社に戻ると自分が座っていたデスクの上に康夫の携帯電話を置いた。総務課長の柴田はまだ席に戻って来ないので、隣にいる大塚課長に「田口さん見つかりませんでした。携帯電話机の上に置いておきますね」と伝えると、エレベーターで1階に降りて昼ご飯を食べに行くことにした。

文恵はコンビニでおにぎりを買うと公園のベンチに座って食べていた。いつもは康夫がこうして昼ご飯を取っているのだが、文恵の姿で同じことをしてみると周りの視線が違う。行き交う人々の視線が自分の方に向かってくるようだ。食事を終えると公園の中を歩きながら、文恵の動き方を真似てみた。誰にも聞かれないように言葉の練習もしてみた。

小瓶の威力が更にすごいのは、変身すると変身した相手の能力や記憶までまったく同じになれることだった。自然な形で文恵の動きができている。康夫は午後からは文恵を演じるんだと思うと興奮せずにはいられなかった。

そんなわけで、昼休みが終わる時間になると会社のあるビルに戻った。そして、エレベーターを待っている時に後ろから総務課長の柴田に声をかけられたのだ。やはり課長は文恵さんと俺とでは目つきからして違うのがよくわかった。午後の仕事をしていても、きつく叱ってこないし、文恵として仕事をするのも楽しかった。


「文恵。文恵」
水のグラスを持ったまま考え事をしている文恵に恵美が声をかけてきた。
「何考え事してるのよ」
恵美はキッチンに行ってしまったウェイターの動きを見ながらそう言った。
「ん?別に何でも無いよ」
とぼけるのはいつもの文恵も同じだ。
「わかったわ。私、トイレ行ってくるから」
席を立とうとする恵美に文恵が腕を掴んで言った。
「恵美。今日は思いっきり飲もうね」
そう言う文恵の目がいつもよりも輝いていることに恵美は気づいていなかった。

005

トイレから恵美が戻って来るとすぐに注文をしていた料理が届けられた。もちろんさっきのウェイターが運んで来た。文恵はウェイターの左胸につけてあるネームプレートを見た。さっきから何度も名前を読もうと思っていたのだが、今になってようやく読めた。上には漢字が書いてあって五十嵐祐介(いがらしゆうすけ)と読めた。どうやら恵美は彼に気があるらしいのがなんとなくわかったのだ。

恵美の目の前にはアラビータが、文恵の前にはカルボーネが置かれ、祐介がボトルワインをワイングラスに注いでくれる。このとき恵美は祐介の動きに惹かれているように見えた。もちろん文恵はその表情を見逃してはいない。2人はワイングラスを持って乾杯をすると食事をはじめた。

フォークをスプーンの上でもってパスタに絡めて行く、口に入れると絶妙な味に驚かされた。2人とも料理の味にご満悦で、会社であった無駄話をしながら、ワインを更に1本追加するほど機嫌がよくなってしまった。こうなるとウェイターの祐介がまたやって来る。ワインをグラスに注いでいる際に、恵美が祐介に自分の名刺を差し出した。裏にはいつの間にか携帯電話の番号が書いてあるのだ。祐介は一瞬もらうのを躊躇ったが、素早く自分のポケットに入れた。

「あとで電話してね。待ってるから」
祐介がいつもの持ち場へ戻る間際に恵美はこの言葉をかけた。このとき、文恵はワインの酔いがかなり回って来ていた。顔が赤くほてっていてちょっとぼーっとして来ていた。恵美はお酒に強い体質のため、びくともしていない。

食事が終わると文恵はトイレへ行って来ると言って、トイレへやって来た。個室の中に入るとスカートのホックを外して便器に座っていた。ずっと我慢していたので、出てくる水も思ったよりも多い。トイレットペーパーで軽く拭き取ると、立ち上がってスカートのホックを止めた。文恵の動きが板についてしまっている。

個室からでると、洗面台の前に立ち。手を洗い化粧を直す。お酒を飲んで赤くなった顔を見ているだけでも実は興奮気味だった。頭の中にこれからの計画が練り上げられてきたからである。席に戻ると会計を済ませ、2人は店の外に出てきた。今日の食事はよほど機嫌がよくなったのか恵美が全部出してくれた。

外に出るとさすがに夜風は冷たい。しかし、酔っている体にはこの風が気持ちよく感じるのだ。地下鉄の駅に向かって歩き出すと、文恵の足下がふらふらしてるのに恵美が気づいた。青いパンプスの動きが悪いのは文恵が思った以上に酔っぱらっているからだろう。

「文恵。大丈夫?」
「大丈夫よ。私はまだまだ飲めたのに〜」
「じゃあ、まだ飲むって言うの?」
「私は大丈夫だよ。まだまだ飲み足りないぐらいだから」
そう言いながらも文恵は恵美に支えられながら歩いていた。
「飲み過ぎたみたいよ。今日はこの辺で帰りましょう」
恵美がそう言うと、文恵の歩きが止まった。
「えぇ〜っ。もう帰るの?夜はこれからだって言うのに〜」
「文恵のためを思ってなんだけど。どうしたらいいって言うの?」
恵美は困った表情で言った。
「私、今日は帰らないわよ。一緒に飲みに行こうよ」
恵美にとっては、今日の文恵はいつもよりも少し頑固に見えた。
「しょうがないわねぇ。じゃあ、私のうちにおいでよ。うちで飲み直しましょう」
「えっ!?恵美の家に泊まっていいの?」
文恵は突然、ニンマリとした表情をし始めた。
「文恵もそうだけど。私だって一人暮らしだからね。たまにはいいよ」
「じゃあ、恵美の家に行こう!」
文恵は両手を空に向かって高く掲げながら大声で叫びました。するとすれ違う人たちは2人をじろじろ見ながら通り過ぎて行くのです。
「わかったから。静かにしなさいって」
2人は恵美の家に向かうべく、地下鉄駅に向かって再び歩き始めたのでした。このとき、文恵がしてやったりの表情をしていたのを恵美は見逃していたのです。

地下鉄駅に到着すると、改札をなんとか通り抜け、プラットホームで電車を待つことになりました。まだ電車が来ないので2人はプラットホームをゆっくりと歩いています。すると、見覚えのある人がプラットホームに立っていました。恵美はその人の姿を見ると心臓がドキドキし始めました。そう、そこにいたのはさっきの店のウェイターである五十嵐祐介だったのです。

祐介がこっちの方に気づくと、お互いに軽くお辞儀をしました。当然のことながら2人の顔はまだ記憶に残っていたのです。
「仕事終わったんですか?お疲れ様です」
祐介は店にいる時と違って私服姿。そんな私服姿の彼に声をかけたのは言うまでも無く恵美からだった。
「今日はたまたま早く帰してもらいました。これから用事があるんで」
「これから?そんな遅くから約束ってあるんですか?それって、彼女と?」
彼に気のある恵美はもしや彼女がいるのではと思いそんな言葉が出た。
「彼女なんていないよ。俺の妹が突然入院したって聞いたもんだから。今から病院に行くことろ。あっ、そんなこと言ったって関係ないよね」
始めて会ったというのに祐介は恵美に親しげに話してくる。
「そうですか。大変ですね」
そんなことを話しているうちに電車がやって来た。一緒に電車に乗り込むと、3人は無言の状態が続いていた。

地下鉄からは恵美たちが先に降りることになった。恵美の家がある駅の方が先に到着するからだ。
「じゃあ、時間があったら電話してね」
電車から降りるとき恵美は祐介にそう言い残して別れた。一緒にいる文恵は半分眠ったような状態だったので、文恵を抱えながら駅の改札を通り抜けるのも一苦労だった。恵美の家はここから歩いてすぐのアパート、2人の夜はまだまだ続くのだ。





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