好きよ好きよも今のうち(001 - 005)
作:夏目彩香(2003年7月1日初公開)
001
この世の中には実に様々な人がいるもの。この世に新しく登場する人もいれば、この世を去らなければならない人もいる。今日できることは今日のうちにやる人、明日でもいいと延ばす人。世の中に存在する人たちの環境は常に矛盾することばかりが取りだたされていると言っても過言では無い。 そう言うわけで、自分の人生について数多く悩み続ける一人の男がここにいる。悩みに悩んで生きているせいもあってか、いつも彼の表情は暗く、友達もほとんどいない彼。一生をこのままで終わらせてしまってもいいものかと、思うには思ってもなかなか前へ進む気力すら無いとのこと。 前向き思考が流行ると、前向きに生きたいと思うのですが、長続きせずに終わる。自己啓発の本を読んではそのたびに自分をよくしようと励みますが、3日どころか1日も持たないのが彼の特徴。とにかく精神をよい方向に持って行く持続力が足りないと言うのが、結局現在の彼を作ってしまったのだろう。 ところが、その彼に突如としてある変化が起きた。彼が生きる希望を見つけたかのごとく、毎日を楽しそうに過ごしているではないか。あれほど精神力溢れる彼を見たことがあったのか?友人がいない彼にとってその変化に一番気づくのは会社の同僚たち。会社の中でもその噂が一気に広まり、どうしてこうなったのか調査を始めることになった程。この変化は彼のこれからを、そして周辺の環境を大きく変えるものとなるのですが、その切っ掛けはちょうど1週間前にさかのぼります。 ここは彼の会社があるビル。彼の会社はここの15階にあります。そのため、昼休みが終わる時間にはここのエレベーターがものすごい混むのは有名な話でした。15階まで行くのがまるで朝のラッシュのような状態で、とても気分のいいものとは言えませんでした。 「桜井さん。桜井さん」 エスカレーターの中には予想通り多くの人が乗ったが、いつもよりも混んでいなかった、文恵と潤蔵はエレベーターの一番奥の隅に向かい合っていた。混んでいないとは言っても文恵の胸が潤蔵の目の前に迫ってくるのはいつ見ても快感だ。潤蔵が話を仕掛けてきたのはこれを狙ってのことと言うのも考えられるのです。 潤蔵の目の前にはモスグリーンのベストを膨らませる文恵のふくよかな胸があるのだから、男性ならどんな人でも興奮してしまうものなのかも知れない。しかも、それが自分の部下だとしたら更にだ。文恵からはかすかな香水の匂いがしている。2人の間には沈黙の時が流れるが、こうしているうちにお目当ての15階へと停まりました。 エレベーターから降りると文恵は、紺のパンプスから右足を出して、前屈みをする姿勢で手を使って揉み始めた。 潤蔵は昼休みが終わってから席に着くときに、お茶を自分で汲んでくるのが日課だ。自然と体が覚えてしまったためか、給湯室へ入ると手際よく自分のお茶を湯飲みに入れて自分の席へと運びました。そこに座ったとき潤蔵は不思議なことに気づきました。いつもは自分から見て右側にいるはずの桜井文恵が左側に座っているではありませんか。そこの席はこの物語の主人公となる田口康夫(たぐちやすお)の席。桜井文恵が席を間違えるなんてことはするはずが無いのですが、パソコンを開いて熱心に中身を見ているようなので、何か頼まれ仕事が入ったのかと聞いてみることにしました。 「桜井さん。田口くんから何か仕事を頼まれたかい?」 こうやって午後の仕事がはじまると、田口康夫がいないのを除くといつもと同じような感じだった。しかし、このときから田口康夫を取り巻く環境の何かが違っていたのです。 |
002
こうやって午後の仕事がはじまると、田口康夫がいないのを除くといつもと同じような感じだった。しかし、このときから田口康夫を取り巻く環境の何かが違っていたのです。 午後の仕事はいつものように始まった。総務課長である柴田潤蔵はいつもよりも1人少なかったためか忙しかった。田口がやるはずの仕事までやらなくてはならなかったからだ。そんな潤蔵の目からは桜井文恵はいつものように仕事をしているように見えていた。 そうやって終業時刻を迎えた。潤蔵は今日の分の仕事を終え帰り支度を始めたが、文恵はなぜかまだ終わらないようだ。残業をするようなことは嫌いで、いつも終業時刻になるとすっと帰っていくというのに、今日はどういう風の吹き回しだろう。文恵の様子が午後になってからおかしい、何があったと言うのか?疑問になることはあっても、潤蔵は珍しく文恵よりも先に帰宅をした。 文恵が帰り支度を始めたのは潤蔵が帰ってから少しあとのことである。実は隣の会計課にいる後藤恵美(ごとうめぐみ)の仕事が終わるまで待っていたのだ。実は午後の仕事の途中で恵美からメッセンジャーで夜のお誘いが入っていた。そのために、いつもは先に帰ってしまう文恵が恵美の仕事が終わるのを待っていたという。 恵美の仕事が終わると文恵にまたもメッセンジャーで先に更衣室で着替えて欲しいとメッセージを送っていた。文恵はそれを合図に13階にある更衣室へと移動した。女子更衣室はなぜか二つ下の階にある。15階ワンフロア全部が文恵の会社なのだが、部署が多くなって社員が増えた。そのためたまたま13階にちょうどいい大きさのスペースが空いたためにそこに更衣室をつくったのだ。 13階の更衣室は男女に分かれていて女子更衣室の方が大きくなっている。女子更衣室に先に着くといつもよりも時間が遅いためもあってか誰もいなかった。するとなにやら嬉しそうな表情で自分のロッカーを開いた。どこの会社にでもある普通のロッカーだが、それを開くと、そこには文恵の私服や通勤用に使っているカバンと青色のヒール6cmのパンプスが置いてある。化粧品もここに置いてあるのだが、文恵はまずその中に入れてある小さな瓶を取り出した。 手の中にすっぽりと入ってしまいそうな小さな円筒形の小瓶だが、化粧品の試供品が入っている入れ物と同じくらいの大きさ。この円筒形の小瓶は透明な素材でできているので、中に入っているものがわかるようになっている。そんな小瓶を取り出してロッカーにある椅子の上にそっと置いた。 それから、文恵は私服に着替えを始めた。そして、不思議なことに時々小瓶の方を見ては口元を緩めて笑っていた。何がおかしいというのだろうか、文恵は私服に着替え終わると、ロッカーの入口にある姿見に映し出される自分の姿を見ながらうっとりとしていた。 「これが、文恵さんの私服姿なんだね。想像していた以上にとてもきれいだよ」 そのあとで、文恵は椅子に座りさっきの小瓶を右手に持って眺めている。中に見えるのはなんだか小さくて可愛いものだ。人形のようにも見えるがもっとリアルにできている感じがする。それもそのはず、小瓶の中にあるのは紛れもなく人間の姿だったのだ。そして、それは桜井文恵の姿にそっくりでなんと裸の状態だった。
「こんな姿になっても文恵さんはやっぱり可愛いよね」 文恵は小瓶の中にいる文恵に軽く笑ってからさっきの話を続けた。 そう言うと、今度は携帯電話から音楽が流れてきた。 |
003
恵美が最後の仕事を終えると文恵に電話をかけた。 そんな恵美を待っている文恵は、女子更衣室の入口にある大きな鏡の前で自分の姿を眺めていた。青いカーディガンにひざ上丈の白いタイトスカート、パールホワイトのストッキングには青のパンプスが光っている。肩まで伸びた髪は軽く赤茶色に染めているようだ。恵美は身だしなみのチェックしながら恵美がやってくるのを待っている。文恵は大きな鏡の前で何度かポーズを決めてみるのだった。そんなことをしているうちに女子更衣室のドアが開いた。もちろん入ってきたのは後藤恵美である。 恵美が着替えいる間に、文恵はトイレに行くことになった。文恵は女子更衣室を出ると、パンプスをコツコツと鳴らしながらトイレの前まで来た。赤いマークを確認してから中へ入ると一番奥にある個室にノックをして入る。文恵はふたをしたまま便座の上に腰をかける。カバンの中からさっきの小瓶を取り出すと、小瓶の中にいる本物の文恵に向かって微笑んだ。 メークをしている途中で誰かがトイレに入って来た。恵美が着替えを終えてやったきたのだ。ベージュのカーディガンにブラウンパンツ姿、黒いパンプスを履いた恵美は制服姿よりも大人っぽい雰囲気を醸し出している。 トイレから出て来てエレベーターの前に立つと文恵が「下」のボタンを押した。ちょっと待っているとエレベーターがやって来た。エレベーターには恵美の上司の大塚大和(おおつかやまと)課長が一人乗っていた。 1階のロビーはシーンとしている。まだ勤務時間が過ぎて1時間ぐらいしか経っていないと言うのに。ビルの外に出てからどこに行くのか話を始めたがなかなか決まらない。恵美が行きたい店と文恵の行きたい店が全く違うから、どちらかが話を譲らないと行けなくなった。強情を張ってもしょうがないので、ここは文恵が譲ることにした。 |
004
恵美と文恵は、恵美が来てみたかったイタリアンのお店に来ている。ここで食事もしながらお酒が飲めると言うこともあるが、何よりも店内が女性向けに作られているために、雰囲気が良くて入りやすい店だった。ここに来るまでは会社から歩いて15分ほどかかった。思ったよりも場所がわかりづらかったが、きちんとたどり着いた。 店の一番奥のデーブルに恵美と文恵は向かい合うように座るとさっそくウェイターが水を持ってくる。なかなかのイケ面の彼から「注文は?」と聞かれたが、まだ決まるわけがないので、「まだ決まっていません」と恵美がウェイターに言うと彼は定位置に戻っていった。 二人で何を食べるのか、ああでも無いこうでも無いと話ながら、恵美はアラビータ、文恵はカルボーネを頼むことに決めた。加えて二人でボトルワインを1本飲むことにした。なんとも贅沢な二人である。 さっきのウェイターに見えるように恵美が手を挙げると、さっそく彼がやってきてオーダーを取り始める。文恵はそのやりとりを黙って見ているが、やはり恵美の方が誕生日が早いせいもあって、文恵がオーダーを取る時よりも色っぽく見えた。オーダーの確認を終えると、彼はキッチンの方へと向かっていく、この間に文恵は今日ここまでの出来事を思い返していた。 そう、あれは昼休みの始まる前のこと。総務課の課長である柴田潤蔵は会議室に詰めていた時のことである。総務課には桜井文恵と田口康夫しかいなかった。田口康夫はこの時が来るのを知っていたため、ある計画を実行するために文恵に話かける。 康夫が席を立つや否や、文恵は康夫の机の上に携帯電話が置いてあるのを見つけた。 男子更衣室の前まで来ると、その中へ入ろうかどうか躊躇した。昼休みの始まる前の時間なのでここには誰もいない。勝手に入っても大丈夫だろうと男子更衣室の中へと足を踏み入れた。いつも自分は入ることの無い部屋なので、文恵は少し緊張している。中はロッカーが並んでいるが、入口に入ってすぐのところから見えるところに田口の姿は無かった。 奥にもロッカーがあるからと、更に奥の方へと足を動かした時、目の前の物がどんどん大きくなり始めた。いや、性格には文恵が小さくなっていたのだ。自分の着ている会社の制服もスルリと体から落ちていき、小さくなりながら全身裸になって行ったのだ。手に持っていた携帯電話も持てなくなって地面に落ちた。そうかと思っている内に、体が宙に浮き始め何かに向かって飛んで行く。そして、気を失ってしまった。 その時、康夫は男子更衣室の一番奥にいた。入口からは見ることができない場所、さっき文恵が足を踏み入れようとした場所だ。康夫は手にふたのついた小さな小瓶を持ったまま、怪しい笑みを浮かべている。その小瓶を持ったまま男子更衣室の鍵を閉めると、大きな鏡の前で自分の服を脱ぎ始めた。 さすがに裸になるのは恥ずかしいとトランクス1枚だけは残すことにした。先ほどの小瓶の中をよく見ると小さくなって全裸姿の文恵がいた。これは一体何だというのだろうか? 15階にある会社に戻ると自分が座っていたデスクの上に康夫の携帯電話を置いた。総務課長の柴田はまだ席に戻って来ないので、隣にいる大塚課長に「田口さん見つかりませんでした。携帯電話机の上に置いておきますね」と伝えると、エレベーターで1階に降りて昼ご飯を食べに行くことにした。 文恵はコンビニでおにぎりを買うと公園のベンチに座って食べていた。いつもは康夫がこうして昼ご飯を取っているのだが、文恵の姿で同じことをしてみると周りの視線が違う。行き交う人々の視線が自分の方に向かってくるようだ。食事を終えると公園の中を歩きながら、文恵の動き方を真似てみた。誰にも聞かれないように言葉の練習もしてみた。 小瓶の威力が更にすごいのは、変身すると変身した相手の能力や記憶までまったく同じになれることだった。自然な形で文恵の動きができている。康夫は午後からは文恵を演じるんだと思うと興奮せずにはいられなかった。 そんなわけで、昼休みが終わる時間になると会社のあるビルに戻った。そして、エレベーターを待っている時に後ろから総務課長の柴田に声をかけられたのだ。やはり課長は文恵さんと俺とでは目つきからして違うのがよくわかった。午後の仕事をしていても、きつく叱ってこないし、文恵として仕事をするのも楽しかった。 「文恵。文恵」 |
005
トイレから恵美が戻って来るとすぐに注文をしていた料理が届けられた。もちろんさっきのウェイターが運んで来た。文恵はウェイターの左胸につけてあるネームプレートを見た。さっきから何度も名前を読もうと思っていたのだが、今になってようやく読めた。上には漢字が書いてあって五十嵐祐介(いがらしゆうすけ)と読めた。どうやら恵美は彼に気があるらしいのがなんとなくわかったのだ。 恵美の目の前にはアラビータが、文恵の前にはカルボーネが置かれ、祐介がボトルワインをワイングラスに注いでくれる。このとき恵美は祐介の動きに惹かれているように見えた。もちろん文恵はその表情を見逃してはいない。2人はワイングラスを持って乾杯をすると食事をはじめた。 フォークをスプーンの上でもってパスタに絡めて行く、口に入れると絶妙な味に驚かされた。2人とも料理の味にご満悦で、会社であった無駄話をしながら、ワインを更に1本追加するほど機嫌がよくなってしまった。こうなるとウェイターの祐介がまたやって来る。ワインをグラスに注いでいる際に、恵美が祐介に自分の名刺を差し出した。裏にはいつの間にか携帯電話の番号が書いてあるのだ。祐介は一瞬もらうのを躊躇ったが、素早く自分のポケットに入れた。 「あとで電話してね。待ってるから」 食事が終わると文恵はトイレへ行って来ると言って、トイレへやって来た。個室の中に入るとスカートのホックを外して便器に座っていた。ずっと我慢していたので、出てくる水も思ったよりも多い。トイレットペーパーで軽く拭き取ると、立ち上がってスカートのホックを止めた。文恵の動きが板についてしまっている。 個室からでると、洗面台の前に立ち。手を洗い化粧を直す。お酒を飲んで赤くなった顔を見ているだけでも実は興奮気味だった。頭の中にこれからの計画が練り上げられてきたからである。席に戻ると会計を済ませ、2人は店の外に出てきた。今日の食事はよほど機嫌がよくなったのか恵美が全部出してくれた。 外に出るとさすがに夜風は冷たい。しかし、酔っている体にはこの風が気持ちよく感じるのだ。地下鉄の駅に向かって歩き出すと、文恵の足下がふらふらしてるのに恵美が気づいた。青いパンプスの動きが悪いのは文恵が思った以上に酔っぱらっているからだろう。 「文恵。大丈夫?」 地下鉄駅に到着すると、改札をなんとか通り抜け、プラットホームで電車を待つことになりました。まだ電車が来ないので2人はプラットホームをゆっくりと歩いています。すると、見覚えのある人がプラットホームに立っていました。恵美はその人の姿を見ると心臓がドキドキし始めました。そう、そこにいたのはさっきの店のウェイターである五十嵐祐介だったのです。 祐介がこっちの方に気づくと、お互いに軽くお辞儀をしました。当然のことながら2人の顔はまだ記憶に残っていたのです。 地下鉄からは恵美たちが先に降りることになった。恵美の家がある駅の方が先に到着するからだ。 |
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