日曜日7月5日 陰陽の判定(その1)


 梅雨の勢力が衰え、次第に暑さに皆が文句を言い出す頃、蒸し暑くなり始めた朝のトイレの個室で凛太郎は顔を青ざめさせていた。
「来ない……。もう一週間だし、やっぱり……どうしよう……」
 生理が来ない。凛太郎はその事実に目がぐるぐると回ってしまい、トイレの中で膝を抱えてしまった。テスト期間中も情け容赦なく犯され続けたのだ。全て避妊しないで。受精の確率がどの位なのかは知らなかったけれど、それだけの回数を強いれば当たってしまうと思っていた。
 ただ、精神的な抑圧の為に生理が飛ぶ、という事はある。凛太郎の場合、修一の事、ミシマの事、クラスメイトの事、そして女性化した事など、様々な抑圧要因があった。それが今回生理を遅らせている事も考えられた。
 しかし、女の子になって二ヶ月の凛太郎には、初潮の後は毎月必ず生理が来ると信じていた。だから、生理が来ない事は、自分が妊娠したかも知れないと思っていたのだ。
 千鶴に相談する、普通の事ならそれでいいだろうけれど、事が事だけに迂闊な事は話せない。なんとなれば、千鶴が修一に喰ってかかる場面が目に浮かんでしまう。
 もしこのまま本当に望まない赤ちゃんがいたとしたら、どうしたらいいのか。凜太郎も漠然と堕胎の事は知っていたけれど、それがどれだけ身体に負担を掛けるかは知らないし、いくら望まない赤ちゃんでも殺すなんて出来ないと感じていた。
(望まないって、僕もそうだったんだっけ)
 ふと、理に押し倒された日曜を思い出していた。こどもなんて欲しくなかった、ただ千鶴とのセックスだけが目的だったという告白。凜太郎は自分の存在意義なんてなかったのかと思ってしまう。しかし、千鶴はどうなのか? 千鶴の凜太郎に対する苦しい程の愛は、望まないこどもに対するものではない気がするのだ。仮に最初がそうであっても理と違って、女だから母だから変わってくるのだろうか。
(とにかく、確かめないと)
 確かめるとなれば、薬局で売っている妊娠診断キットしかない。ただ、女子高生がそれを買っても不審がられないか、そんな心配もあった。
 取りあえずは食事の後、薬局へ行こうと考えつつ、トイレを出て千鶴の待つキッチンへと向かった。

 最近の山口家の食卓では、千鶴が独り言を交えながら良く話しをしていた。凛太郎の元気が無い事に心配した千鶴が、精一杯場を明るくしようとしていた。今日も当然、千鶴が話をしていた。と、久しぶりに凛太郎が口を開く。
「あのさ、僕が生まれた時って嬉しかった?」
「え? どうしたの急に。そりゃ嬉しかったわよ」
 急な、しかも予想もしなかった質問に多少戸惑いながら、千鶴が答える。しかしその質問の内容に少し疑念が湧いていた。
「お父さんが……僕の事望んでなかったって言ってた」
 もそもそと御飯を頬張りながら、千鶴を見ないで凛太郎が続ける。理が凛太郎の言葉に千鶴はすぐさま反応していた。表情が固くなる。
(! なんて事言ったのっあのひとは!)
 ぎゅっと眉間に皺を寄せて睨むような目つきになっていた。その様子を伺うように凛太郎が見つめると、千鶴は表情を和らげてみせた。
「それは……凛ちゃんももう大人だから言うけど、セックスってそれだけじゃないのよ。愛情を確かめあう行為でもあるから。あなたを宿した時、びっくりはしたけど、嬉しかったのよ。あの頃は愛してたから」
 少し遠い目をしながら、千鶴は語っていた。あの頃を思い出したのだろう。
「そうなんだ。じゃぁ、愛して無かったら、いらなかった?」
 真顔で聞く凛太郎に、千鶴は更に続ける。
「どんな事を聞きたいのか解らないけど。愛してたから凛太郎が生まれたの。だからあの人が言った事なんて気にする事ないのよ」
 凛太郎が言いたい事、聞きたい事は望まない子どもはいるのかいらないのか。しかし千鶴は凛太郎が理に言われた事を気にしていると、見誤っていた。
「別に、気にしてないし。……ご馳走様でした。ちょっと出かけてくるから」
 凛太郎はいつもの六割位の量の朝食を食べ終わると、早々にキッチンを出て行こうとする。その凛太郎を千鶴が呼び止めた。
「凛ちゃん。お母さんは凛ちゃんの味方だから、何でも気になる事は言って頂戴ね」
 その声に振り向いたけれど、凛太郎は何も言わずに平和なひと時をあとにした。

 比較的大きな薬局のチェーン店が、凛太郎の住む街にも進出していた。いつも行く薬局では、アトピー用の軟膏を購入していたらか、顔を覚えられている。そういう所だから、凛太郎が千鶴の息子である事も解っているから、妊娠診断キットなどを購入したら、即、千鶴にばれてしまう。それを恐れたから、チェーン店へ行く事にした。
 開店直後だからだろうか、広い店内には数える程度しか来店者がいない。見たところティーンの客など凛太郎ただ一人だった。総合感冒薬、鎮痛剤、目薬などの棚をうろうろしながら、目的の棚を目指す。そのまま直接行ってもいい筈だけれど、何となく近づき難かった。
 判定キットは女性用の品が置かれた棚にあった。いくつかの製薬メーカーから出され、数種類の製品がある。一個入りと二個入りがあった。躊躇する心は凛太郎に奇異な行動を取らせていた。行ったり来たり、ちょっと離れては判定キットを見、近づいては周りを見回してしまう。とても怪しげだ。
 赤くなりながら凛太郎は手を伸ばし取ろうと思うけれど、思わず誰かが見ていないか周りを見回してしまう。高校生の女の子の姿をした男の子が手に取るようなモノではない、そんな意識があったし、勿論それを手に取ると言うことは、そう言うことをしたことがある、と周りに宣言しているという気持があった。
(ああ、もう、どうしよう。なんでこんなに恥ずかしいんだろ。でも、確かめないとダメなんだからっ)
 えいやっと一個入りの判定キットを手に取ると、背後の棚から適当な商品を二つ取り、レジへ早足で向かった。
 レジにはまだ客は並んでいなかったけれど、男性が立っている。
(せめて、女の人なら……)
 男性への嫌悪感もあるし、した事があると見られるのが嫌だった。暫く商品を選ぶ振りをしていた凛太郎だったけれど、店員が変わる気配は全く無い。いつまでも佇んでいる訳にもいかない。半ばやけくそで凛太郎はレジの前に立った。
「いらっしゃいませ……!」
 アルバイトなのか大学生位のレジ係は、商品を受け取りバーコードを読みとらせていく。歯磨き粉を二箱の後判定キットを手に取ったとき、凛太郎にはその店員の動きが少し止まったような気がした。客の立場で考えれば、売っている商品なのだから何を買ってもいい筈なのだ。店員の態度など気にする必要は無い。しかしモノがモノだけに恥ずかしいと言う気持が先に立って、どうしても敏感に感じてしまう。
 店員の視線がほんの少し商品から離れ、凛太郎の下腹辺りを見た。人の視線が自分のどこに向けられているか、肌の事があったから良く解っている。そして店員が自分に対してどう思っているのか、刹那考えてしまった。
『女子コーセーが適当にヤッテるからそうなるんだよ』
 声が聞こえる訳でもないし、本当にそう思ってるかなんて解らない。しかし少なくとも凛太郎の心にはそう言われていると感じてしまった。
(違うよ、僕自分からなんてしてない。適当になんて……)
 言ってみればただの自問自答のようなもの。
 店員は、そんな目の前の客の葛藤などお構いなしに、よく言えばゆっくりと、悪く言えば要領悪く袋を取り出している。
(はやくしまってよ。早くっ!)
 慣れない手つきの店員に、少々苛つきながら既にお金を財布から出し、トレイに乗せていた。店員が商品を受け渡す時、じっとりと舐めるように凛太郎を見つめてきた。その目つきに凛太郎はぞっとしてしまう。
「……ありがとうございました」
 凛太郎はお釣りを受け取ると、一目散に店を後にした。

 お昼近くになって、凛太郎は家に戻ってきた。千鶴がお帰りを言う時に目があったのだけれど、凛太郎ははっとして何かを背後に隠しそのまま自室にあがってしまった。その様子に千鶴は何となく腑に落ちない気がしていた。日曜日なのだから千鶴が家にいるのは当たり前の事なのだ。それに驚いたような表情を見せると言うのはおかしい。
(何を買ってきたのかしら……お昼採るときにでも聞いてみましょうか)
 母一人子一人で、比較的何でも隠し事はせずに話をしてきた積もりだった。しかしここ数日の凛太郎の態度は気になる。しかも今日は何事か隠している。千鶴は少しばかり嫌な予感を感じていた。
 多分、凛太郎の周期は二十八日だろうと思い、既にナプキン等は用意していた。解り易いようにトイレの棚に置いてあるそれは、しかし凛太郎が手をつけた様子がない。大体、汚物入れに使用済みを捨てている形跡が無いのだから。千鶴の脳裡に自然とある種の疑念が沸き起こるのも仕方の無い事だろう。しかしそれは信じたくない事でもあった。
 いくら女の子になって、男の子を好きになったと言っても、その行動は余りにも軽率に感じる。あれだけ言って聞かせたと言うのにセックスしたなら嘘を吐いた事になる。その上生理が来てないなら……。
(それは、あのコに限ってないわよね)
 千鶴は自らの考えを誇大妄想だと決め付けて、頭を振りながら昼食の用意に取り掛かり始めていた。

 部屋に戻った凛太郎は、千鶴が来ないか暫く間を空けてから薬局の包みを開け始めた。細長いパッケージには「わずか一分ではっきり判定」と書かれている。裏面を見ると「生理開始予定日の役一週間後から検査可能」の表示。凛太郎の場合も一週間だ。判定は出来るだろう。
(おしっこで解るんだよね、これ)
 箱を開けるとラミネート加工された包装に包まれたキット本体と、使用上の注意が入っていた。凛太郎はそれを注意深く読む。
(一分で青い線が出て、それから十分以内にもう一本出なかったら、大丈夫。出たら……)
 その先の事など考えたくも無い。今は何も出ないと信じたい気持ちで一杯だ。包装されている判定キット本体を取り出し、ポケットに入れると、箱を捻ってゴミ箱に入れた。使用上の注意はポケットに改めて入れる。
 乾いた喉に唾を送り込み湿らせると、少し落ち着きが出てきたようだった。部屋を出て階下のトイレに入る。ポケットからキットを取り出し、キャップを外そうとするけれど、手が震えてしまう。判定如何によっては、女性化した以上に人生が大きく変わってしまうかも知れない。大丈夫、と思ってみても深層心理ではそう思っていない証拠だった。
(な、斜めにして……と。おしっこ、ん)
 別に尿意を催していない状態の中で出そうとしている。早く出ろと思う程に出ないような感じになる。嫌な事はなるべく早く終わらせたいというのに。
(早く、早く、出ろ出ろっ。ん〜)
 暫く息んだおかげかちょろちょろと出てきた。けれど、量が少ないからちょっとしか判定キットの「サンプラー」と呼ばれる部分におしっこがかからない。使用上の注意では「五秒間、尿で濡らす」と書かれているが、とても五秒なんて出来なかった。せいぜい二秒だ。
(ん〜? これでちゃんと解るのかな)
 一抹の不安を胸に抱きながら、判定キットにキャップをして便座に腰掛け一分を待った。狭い個室での一分は、とても長く感じる。一分が経過した事を時計で確認した。
(神様、一本だけしか出てませんように!)
 目を瞑って顔の前までキットを掲げ、ゆっくりとそれを見始める。しかし。
(……線、出てないじゃん……)
 キットには小窓が二つあり、テストがきちんと行われたか確認する窓と、妊娠を判定する窓。そのどちらにも青い線が出ていないのだ。
(おしっこ、少なすぎたのか……。二本入り買ってくればよかった。また買いに行かないといけないのか……)
 判定が持ち越された事の安堵と、それ以上に、もう一度買いに行かなくてはならない事。凛太郎の心にその二つがあったが、もう一度買いに行くという事は羞恥を伴う事もあり、緊張を強いられる。また同じ店員がいたらイヤだと思うと暗い気持ちになってしまう。
 キットをティッシュペーパーで包みポケットに入れると、きちっと拭ってから便座から立ち上がり流した。しかし余りに緊張し始めたためか、カーゴパンツを引き上げる際にポケットから抜け落ちた物がある事に気づく事無く、トイレから出て行っていた。
「あ、お母さん、もう一度出てくるから」
 キッチンで昼食の用意をしていた千鶴に声を掛ける。その凛太郎の声に被せるように千鶴が返答した。
「あら、また? もうご飯できるよ」
 いつもあまり出歩かない凛太郎の行動に怪訝そうな顔をする。昼食の用意はほぼ出来ているようだった。テーブルには食事がならべ始められている。
「直ぐ戻ってくるから。食べてていいよ」
「どこへ?」
「……ちょっと買い物」
「気をつけて行きなさいよ」
 多くは尋ねず、一応快く送り出した千鶴だったが、食事が終わったら色々と尋ねたい事で一杯だった。そのまま玄関から出ていく凛太郎を見送ると、残りの食事を用意してしまった。しかし凛太郎が帰るまで暫く間がある。千鶴はトイレへと向かっていった。
「ふぅ……」
 暫し開放の安堵に浸る千鶴。トイレットペーパーホルダーからペーパーを取る段になり、床に一枚の紙が落ちている事に気づいた。
(あら? 何かしら……ええっ?! これ)
 千鶴も記憶にある妊娠検査キットの使用上の注意。凛太郎が出来た時、真っ先に使って確かめた経験があった。メーカーや形は違うけれど、内容を見ればそうと解る。
(あのコ、まさか……修一君との? それで悩んで?)
 今朝の凛太郎とのやり取りを思い出せば、子どもの話をしていたのだ。望んでいる子どもか望んでいない子どもか。そして、凛太郎には二度目の生理が来ていない。
 考えれば考える程、その符合が合ってしまう。千鶴の中では「修一に無理やりされて、望まない子どもが出来て凛太郎が悩んでいる」というストーリーが出来上がっていた。
(確かめないと。でもどうやって? きつく聞いたら絶対口を閉ざしてしまうだろうし……誰に似たのか頑固だから。それよりも病院へ、あ、日曜じゃ開いてないわ。明日休ませて連れて行くとして……あっちにも話をしないとね)
 きっと凛太郎が今の千鶴を見たら「夜叉」だと思っただろう。冷静な思考とは正反対の表情を顔に浮かばせながら、千鶴は今日の行動の変更を決めていた。

 暫くしてから凛太郎が戻ってきた。昼食の用意が整っているテーブルへと腰掛けると、千鶴が意味深な目つきで見つめてくる。
「なに? なんかおかしい?」
 おかしいと言えばずっとおかしいのだけれど、凛太郎本人はよく解っていない。千鶴が口を開く。
「そうね。凛ちゃん、何かお母さんに言う事は無い?」
 ご飯を口に運ぶ箸が止まりかけ、喉を通る食物が詰まる感覚があった。けれど、凛太郎は平静を装いながら切り返す。
「……別に無いけど」
 一瞬、ばれているのかと思ってしまう。しかし検査キットの箱は部屋のゴミ箱に捻って捨てているし、本体もティッシュと一緒にビニールの袋に入れて薬局のゴミ箱に捨ててきている。証拠は確実に隠滅している筈だった。凛太郎の頭の中には既に使用上の注意に関しては忘却の彼方、だったのだ。まさか千鶴が拾っているとは夢にも思っていない。
「そう? あ、お母さん午後はちょっと出てくるから。夕食前には戻るからね」
「あ、そうなんだ。仕事? 急だね」
(お母さんいないなら、その時にすればいいかな)
 千鶴が午後に出る目的を知らない凛太郎は、渡りに船とばかりに思っていた。いないなら催すまでゆっくり待てば、さっきのような失敗も無いだろう。
「ん、そうね。大切な用件て言うのは、大抵急に出来るものよね……」
 仕事の話などではなく、凛太郎についての大切で重大な話。千鶴はふっと息を吐き、凛太郎から目を伏せていた。

 * * * * * * * * *

 剣道の稽古にも、勉強にも集中出来ない修一は、週末を鬱々と過ごしていた。耳には忘れようと思っても凛太郎の声が何度となく響き、その度に修一の心を引き裂いていく。
『あ、阿部君が好きだから……諸積君の事は何とも思ってないし』
 ベッドに寝転びながら凛太郎の事を考えてしまう。「別れる」と言われた時は、また何か自分が気づかない事で怒っているとばかり思っていた。けれど、凛太郎の口から直接もたらされた言葉は、それを完全に否定していた。
(あんな奴……友達でもなんでもねぇよ)
 そんな事を思ってみても、心が苦しいという事は今でも好きなのだ。
(何で阿部なんだよ? 嫌な奴って言ってたじゃねぇか……)
 凛太郎の真意を測りかねる修一は、自分を蔑ろにした凛太郎へと怒りをぶつけるしか無かった。しかし一方で、凛太郎を好きでいる自分がいるのも解っている。
 凛太郎と阿部は、あれから度々見せ付けるように修一の前に現れていた。実際には阿部が勝ち誇った目つきで修一を見るだけだったが。凛太郎はと言えば、修一への遠慮からか目を合わせる事はなかったけれど。
(ああっうだうだ考えたってしょうがねぇだろっ。リンタが俺を嫌いなら仕方ねぇじゃねぇか)
 気分を切り替えようとして部屋を見回すと、テーブルが目に入る。凛太郎に告白したテーブル。
(告白して返事も貰ったんだけどな……)
 違う事を考えようとしても、全ての思考が凛太郎へと繋がってしまう。修一は無心になろうと木刀を手に取り、庭に出て行った。


(その2へ)



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