日曜日 面会(その2)


 一旦は泣き止んだけれど、男の怖さを知ったからなのか、理に蔑まされた悔しさからなのか、それとも自分を犯そうとした父親への失望からなのか、道を急ぎながら涙が溢れてしまう。凛太郎は修一の元へ走っていた。日曜日の午後だ、駅前には沢山の人が溢れていた。その中を掻き分け小走りに走っていく。途中、何人もの男が声を掛けてきたが、凛太郎は全て無視していた。
 とにかく会いたかった。何かを言って貰う、そんな事を期待した訳ではなく、いつも凛太郎自身を見てくれていた(と思っている)修一に会いたかった。自転車を全速力で漕ぐと、頬を伝わった涙が乾いて少しひんやりとしていた。
 諸積家まであとワンブロックと言うとき、凛太郎は修一になんの連絡もしていない事に気づき、ハタと我に返った。今日、図書館へ行こうかと言ってくれた修一を、父と会うからと断ったのだ。もしかしたら家にはいないかも知れない。自分が会いたいからと言って、絶対家にいろ、そんな都合のいい事は言えない。修一は常に家に待機している訳ではないのだ。
(僕って自分勝手だ……。修ちゃんに自分の時間大事にして、なんて言ったくせに……ずっと家にいて欲しいなんて。今から行っても家にいるとは限らないのに)
 そう思うと、自転車を漕ぐ足が急に重くなってしまった。徐々にスピードを落とし道端で停まってしまう。凛太郎はチノパンの後ろポケットからごそごそと携帯電話を取り出すと、その場で修一にメールを打った。
『時間ある? 今からそっちに行っていい?』
 メールを送信し暫く待ったけれど、修一からの返答は中々来ない。凛太郎は道端に停めた自転車に跨りながら10分程度待っただろうか、やっと返答が来た。
『今から帰る 30分後に家で』
 凛太郎は家にいなかった修一に、すごく悪い事をしたと思っていた。多分、あの修一の事だ、凛太郎からのメールを見て自分の用事を切り上げて急いで帰ってくるのだろう。先週自分で言った言葉とまるで反対の事を修一にしてしまっている。かえって凛太郎は自分が修一を拘束している、そんな気になってしまった。
 ただ、自分の為に急ぎ帰ってきてくれる、そんな修一を改めて好きだな、と思ってしまう自分もいた。これで修一と会える。顔が見られる。話しができる。でも、何を話す?
 事ここに至って、凛太郎は修一に何を話そうとしていたのか、それを思い愕然とした。修一に理が実の子である自分を犯そうとした話しをするのか? そんな身内の恥を晒したら、修一が自分を見る目が変わってしまうのではないだろうか。セックスにだらしない父親のDNAが自分にも流れていると、凛太郎本人から言うようなものだ。自分が修一のペニスに狂いイキまくった、それは理の血のせいだ、そんな事を伝えたいのか? 自分が肉欲の虜になった話しなど、修一に出来るわけがない。
(ダメだよ、お父さんの話しなんて出来ないよ……。魔物とのえっちの事だって……。僕はただ、修ちゃんに会いたい……。会って顔が見たいんだ。会ったら嫌なこと忘れられる、きっと……)
 凛太郎は自転車を押し、ゆっくりと諸積家の門まで来た。中を覗くと運悪く修一の母親が庭木に水をやっている。凛太郎の姿を見るとすかさず声を掛けてきた。
「あら、リンタくんじゃないの。修一今でかけてるのよ。一緒じゃなかったの?」
 修一の母は修一を女にしたような性格で、細かいことにはあまり拘らない。凛太郎の今日の服装なら、薄いパーカの下のブラウスに隠された胸が、形良く盛り上がっている事くらい直ぐに解る筈だ。しかしそんな事にはお構いなしだった。
「あ、こんにちは。今日は約束してなくて……。メールしたら30分くらいで戻るって。だからここで待ってようかなって思って……」
 凛太郎も修一の母の性格は解っていたけれど、やはり知っている人に女の子になっている姿を見られるのは嫌だった。遠回しに門の外で待つと言ったつもりだったが、彼女には通用しなかった。
「それじゃ入って待ってなさいよ。美味しいお菓子あんのよ。あ、笑がいるから修一が帰るまで遊んでてね」
「いえ、ここで」
 待ちますから、そう固辞しようとしたが、修一の母は凛太郎の手を取ると玄関に引っ張り込んでしまう。
「笑ぃ、リンタくん来たわよ。修一帰ってくるまでお茶とお菓子お願いね。あたしはまだ庭仕事あるから。頼んだわよ」
 玄関先でそう怒鳴ると、彼女はいそいそと庭に出てしまった。凛太郎は恐縮した風で玄関で佇んでいると、二階からトタトタと音をさせながら笑が顔を出した。
「凛ちゃん! いらっしゃい。でもお兄ちゃん今日出かけちゃってるよ。……どうしたの? なんかあったの?」
 満面の笑顔で出迎えてくれた笑は、凛太郎の顔を一目見るなり、その表情が暗く沈んでいるのを察知した。そしてうっすらと涙の跡があることに気づいた。
「あ、うん、近くに寄ったから……。別に何もないよ。変な顔してるかな?」
 凛太郎は精一杯笑顔を返した。笑には悪いけれど、やはり修一に会いたい。もし話すにしても修一にしか話したく無い内容だ。勿論、今日の出来事は家に帰っても千鶴の耳には絶対に入れられない。
「とにかく上がって。あたしの部屋に行こ。あ、お菓子すごく美味しいんだよ」
 笑は凛太郎を促し、二階の自室まで連れていった。
(笑ちゃんの部屋って入った事なかったな。女の子の部屋に男が入っていいのかな)
 これまで凛太郎が諸積家に来たとき、大体は修一の部屋に行っていた。勿論応接間や居間に通されたこともあるが、勉強会の時は修一の部屋だ。修一と二人でいる時には必ずと言って良いくらい笑が部屋に入ってきていた。しかしその逆は今まで一回もない。女の子の部屋には入ってはいけない、そんな暗黙の不文律があった。だから今日も凛太郎は自分が入っていいものかどうか考えていたのだ。
「ほらほら、突っ立ってないで。入って入って」
 笑が凛太郎の背中を押し、部屋へ入れてしまう。凛太郎も嫌とは言えず笑に開かれた扉から入っていった。室内は笑の性格を反映しているのかさっぱりとしていたが、やはり男の子の部屋、例えば凛太郎や修一の部屋が持つ雰囲気とは違っていた。
 正面に机があり、左にベッドが置かれている。右にはドレッサーと鏡が配置されていた。ベッドには縫いぐるみがある。黄色にトラじまの猫の縫いぐるみだった。部屋の中心には冬場にはコタツになるのだろう、背の低いテーブルが置かれ、カラフルなクッションが三つ並べられている。凛太郎は笑に促され、その一つに正座した。
「ちょっと待ってて。お茶とお菓子持ってくるから。足崩して適当に寛いでてね」
 笑はそう言うと元気良く部屋を出て行ってしまった。凛太郎は手持ち無沙汰で部屋をぐるっと見回してみる。本棚もきちんと片付けられ、ベッドも皺がない。片付いていない修一の部屋とは全く違っていた。
(笑ちゃんて結構キチンとしてるんだ。女の子ってみんなそうなのかな?)
 笑が戻ってくるまで正座してる訳にもいかず、足を崩そうとしたけれど、胡坐をかこうと思っても今の姿では変だ。かといって横座りは女の子っぽすぎる。悩んだ末膝を腕で抱えて体育座りする事にした。
「お待ちどう様。……凛ちゃんなんで体育座り?」
 お茶とお菓子をトレーに乗せ、笑が戻ってきた。くすくす笑いながら凛太郎に話し掛ける。凛太郎は少し赤くなりながら、笑に説明し始めた。
「だってさ、胡座なんかかけないし、横座りってなんか変じゃない? バランス悪いし。だからこれ。食べるときは行儀悪いから正座すればいいし」
「えー、っと。それで正座してたら足崩して貰う意味ないし。そう言うときは、こうしてみたら?」
 笑は膝を揃えそのまま両足を外側へ向けてしまった。いわゆる女の子座りとかとんび座りとか言う座り方だ。凛太郎も小さい時は出来たけれど、最近では身体が固くなったのか膝が痛くなってしまう。自然とその座り方は選択肢から外していた。
「その座り方って男は出来ないよ」
 凛太郎は直ぐさま尤もな事をいう。しかし笑も負けていない。
「凛ちゃん、今女の子じゃん。出来るよ。楽、とは言わないけど体育座りするよりいいよ」
「あ、そうか。今女の子だったっけ……。できるかなぁ」
 しぶしぶ、といった調子で座ってみる。と、意外と楽に足がぺたんと床についた。おまけに体育座りと違って背筋も伸びる。
「意外と楽なんだね。身体、柔らかくなったみたい」
 自分の身体ながら感心しきりといった風の凛太郎だった。笑は横でニコニコと笑顔を振りまきつつ、本題に入ろうと口火を切る。
「座り方講座はこれぐらいにしましょ。凛ちゃん、今日どうしたの?」
 笑はお菓子を頬張り、お茶を啜りながらちょっと遠慮がちに凛太郎を見た。その言葉に凛太郎は少し緊張してしまう。同じようにお茶を飲んでいた手が止まり、きゅっと唇を閉め笑を見返していた。
(笑ちゃん、なんか感じたのかな。僕そんなに泣いた顔してたんだろうか? お父さんの事なんて言いたくないよ)
「……別に、話したくなかったらいいけど、話したくなったらいつでも言ってよ。こないだみたいに携帯でもいいし。お兄ちゃんも結構役立つと思うから。お兄ちゃんに言いづらいならあたしに言ってね」
 お茶のカップを両手で持ち、カップから伝わる熱を掌で感じていた。一つ年下の女の子だけれど、こういう所は修一と笑はそっくりだと感心してしまう。そして自分の事を気に止めてくれていることをありがたいと感じてもいた。
「ありがと笑ちゃん。その時にはそうするね」
 にっこり微笑みながら笑を真っ直ぐ見つめる凛太郎の目に、笑はどきりとしてしまう。その顔は今更ながらに「可愛いこ」だったんだと思えた。肌の事が無ければ、学校のアイドルともなれたんじゃないかと思ってしまう。
 凛太郎が女の子になったと知ったとき、笑はショックで倒れそうだった。絶対普通ではあり得ない話しだ。修一が運命を感じた少女に振られた言い訳だと解釈していたが、嘘をつくような兄では無かった。そして先週の日曜日。本人と会って改めて本当のことだったと認識した。少し気になる可愛い男の子。幼い恋心が会った瞬間に砕けてしまった。
 本人の苦しみを思うと余りある程だ。自分がもし男になったら? 想像も出来ない苦痛だと笑も思う。だから、最早男と女では無くなってしまったけれど、同性として何か出来る事が無いかと思っていた。そうする事で砕けてしまった心を埋められると信じて。
 それから暫く、二人は他愛のない話しに興じていた。尤もしゃべるのは殆ど笑だったが。凛太郎は無意識のうちにチョーカーを弄りながら、俯き加減に時々相槌を打っていた。
 そうこうしているうちに、門が開く音が聞こえた。凛太郎はその音を聞いて顔を上げ部屋の扉に目を移していた。笑も「あ帰ってきたかな?」と反応している。
「ただいまっ。リンタ来てるって?」
 玄関の開く音と共に笑の部屋まで元気な声が聞こえてきた。
(やっと修ちゃんと会える……)
 凛太郎の心臓がどくんと大きく脈動する。どたどたと廊下と階段を上がる音が大きくなると共に、心臓の音も大きくなる気がした。笑はそんな期待とも取れる凛太郎の横顔をじっと見つめている。
「笑ぃ、リンタそこか? 入るぞ」
 笑が答える前に既に扉が開かれていた。ぬっと出てきた修一の顔は汗だくになっている。
「ちょっとぉ、返事する前に入ってこないでよお」
 凛太郎の横で笑が抗議の声を上げる。修一は笑を一瞥したが、そのまま部屋に入り凛太郎の横に座った。
 汗で強くなった修一の体臭が凛太郎の周りに漂う。その臭いを嗅ぐと不思議と落ち着きが生まれた。凛太郎が何か言おうと言葉を探していると、修一がそれより先に話しを始める。
「リンタ、どうしたよ? メールくれたから急いで帰ってきたけど、今日『第三』だろ? 親父さんとなんかあったんか?」
 修一の顔を見て、体臭を嗅いで心が落ち着いた、そう思っていたけれど、修一から発せられた問いは、再び凛太郎の記憶をまさぐり、理の事を思い出させる。そうしてそれまで凪いでいた心に漣をたてた。凛太郎はそれまで修一を見ていた視線をカップに移した。
「? 『第三』て何?」
 笑が横から口を挟む。
「『第三』日曜って、お父さんと会う日なんだ……。うち離婚してるから……」
 凛太郎は少し決まり悪そうに、苦笑いを浮かべながら笑の質問に答える。笑はしまった、と言う顔をしながら小さく「ごめんなさい」と言っていた。
「大丈夫か、お前? 話しあるなら聞くぞ?」
 修一は話し易いようにするためか、優しい笑顔で凛太郎に聞いてくる。それまでの身体の緊張が和らぐようだ。
(やっぱり修ちゃんはお父さんとは違う。男だけど、側に、いて欲しい……)
「あ、んと、お父さんと、会ったんだ、今日。そう、会ったんだ……。でね…………何も無かったんだけど……」
 そこまで言うと凛太郎は大きく息を吸い込んだ。心に安心が生まれたのか、ほっとしたのか、目頭が熱くなり目に映る修一の顔が歪んできた。
「リンタ?」
 修一が涙を湛え始めた凛太郎の目に驚く。笑は黙って聞いている。
「……急にさ、修ちゃんに、すごく会いたくなって……」
 凛太郎は笑顔のままぼろぼろと涙を流していた。笑は慌ててティッシュを探す。
「すごく会いたくなって、メールしちゃったんだ。自分勝手でごめんね……」
 犯されてもおかしくない状況から、一転して安心できる人の側に来れた。それが嬉しかった。そしてもっと安心したくてぎゅっとして欲しい、そう思ったけれど、口には出せない。そんなことをされたら、父親から受け継いでいる血が、淫乱な自分がばれてしまうかも知れない。そんなあり得ない筈の心配を、凛太郎はしていた。
 凛太郎の様子をみて、修一は胸に抱いて慰めたい衝動に駆られていた。ここで抱きしめられたらどんなにいいか。しかし笑がいる手前そんな事もできない。
「……いつでも会いに来ていいって。そんなに泣くなよ」
「凛ちゃん、美人が台無しだよ。これで涙拭いて」
 さっと、ティッシュを差し出すと、凛太郎が小さくお礼をいい涙を拭った。

 * * * * * * * * *

 それから一時間程、凛太郎は諸積家に留まっていた。修一も笑も、凛太郎の涙の訳を尋ねようとはしなかった。本の話しやテレビ番組の話しに三人は没頭していた。時計を見ると三時を回ったところだった。
「あ、僕そろそろ……」
 凛太郎が遠慮がちに二人に言う。「え〜? まだいいじゃない」と笑が言ったが、修一が制した。
「……近くまで送るよ」
 修一が立ち上がり、伸びをしながら言った。
「ううん、いいよ。今日は僕の都合で振り回しちゃって。ほんとにごめん。でも、ありがとう」
 凛太郎も立ち上がる。笑はお菓子を紙袋に入れ凛太郎に手渡した。
「これ、おうちでも食べてね。美味しかったでしょ?」
「うん、美味しかったよ。ありがたくいただきます。笑ちゃんも今日はありがとう。せっかくの休日なのに。ごめんね」
 玄関先まで二人に見送られ移動する。庭にいると思っていた修一と笑の母の姿がなかった。
「あれ? かあちゃんいねーな。草捨てに行ったかな?」
 修一が庭を見ながらひとりごちた。
「じゃぁ、帰るね。今日は僕のせいで時間つぶさせちゃってごめん。今度埋め合わせするから」
「そんなのいいよ。お兄ちゃんはいつも暇だし。あたしも凛ちゃんと会うの好きだし」
「笑は別にして、埋め合わせなんて気にすんな。いつでもいいから、来たいときに来いよ」
 凛太郎は二人の気遣いに感謝しながら自転車に跨る。
「二人ともありがと……。修ちゃんに会えて、よかった。おばさんによろしく言ってね」
「おお、気を付けてな」
 それだけ言うと、後ろを気にしながら凛太郎は帰っていった。
「ねぇ、お兄ちゃん」
 十分遠ざかったその姿を見ながら、笑が尋ねる。
「やっぱ、お父さんとなんかあったんだよねぇ」
 修一は少し考えながら答えた。
「俺達にも話せないんだから、よっぽどだったんだろうな……。女になった事でなんか言われたんじゃねーかな。親父に言われたら、そりゃ凹むよな」
「うん……。少しは役に立てたかなぁ……」
 自転車に乗った凛太郎の後ろ姿を見ながら、修一も笑も、まさか凛太郎が実の父親に犯されかけたとは想像もしていなかった。


(その3へ)


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