四日目―連休最終日 修ちゃん


 朝。柔らかな日差しが、カーテンの隙間から洩れ、窓の外では鳥たちの囀りが聞こえていた。凛太郎はたんすを前に、これから始める行動を躊躇していた。
 昨日、母と行ったデパートの店内で購入した女の子用の下着。今着ているのは男の子用のパジャマとトランクス。昨日の段階でブラジャーは試着していたけれど、ショーツは帰ってからも着けなかった。着けられなかった。病院での検査結果とあの夢での出来事から、もう男には戻れないと解り始めていた。外見だけ女の子の身体を外科的に作ったのなら、まだ中身は男の子だ。けれど、身体の中まで女性としての機能を全部有したその身体は、完全に女の子だと認識はしていた。
 だからと言って、女の子用の下着を着けるというのは、なけなしのプライドが許さなかった。凛太郎自身も自分の容姿が、女の子みたい、と本人も思っていたけれど、自分は男である、という意識は物心ついた時分からあったし、周りも可愛らしい女の子のような男の子、として見ていた。当たり前のことだけれど、自分も周りも「山口凛太郎は男である」と認識していた。今更女の子の身体となったからと言って、お前は女だと言われるのは理不尽に感じた。
 うだうだとそんなことを考えながら、部屋の中をうろうろしていたが。
「凛ちゃん? いい?」
 ノックの音と一緒に母の呼びかける声が聞こえた。
「……なに?」
 千鶴は部屋に入ると、凛太郎の姿をしばし眺め、意を決したように話した。
「下着、そのままでいたいのは解るんだけど、でもちゃんとしたものを着ないと体型が崩れちゃうわよ?」
 母の言葉は、凛太郎にはまるで死刑宣告のように聞こえた。
「! お母さん、お母さんは僕が男じゃなくてもいいの? 男に戻そうって考えてないの? 僕は戻りたいし、あのお店も探し続けるよ。これ着たら、なんか、全部女の子になっちゃうよ。お母さんは僕が女の子の方が、僕より女の子の方が良かったの?」
「お母さんにとって、凛太郎は男の子よ。戻してあげたい。時間のある限り一緒に探してあげる。でも、今すぐには見つけられないでしょうし、すぐ戻る訳でもないでしょう。女の子の下着や服を着たからって、凛太郎は凛太郎。それ以上でもそれ以下でもないの。どんな姿であっても、どんな服を着ててもお母さんが愛してる凛太郎には違いないの。だから凛太郎が、こんなかっこしてても僕は男の子なんだよ、って思ってれば男の子よ」
「……」
「……それに、もし、もしもよ? この先ずーっと探して探し続けて、それでもお店とか店員さんとか、見つからなかったら、どうする? いずれは社会に出なくちゃいけないのに、女性がいつも男性の格好をしてる。お母さんや凛太郎は事情が解ってるからいいけど、社会的には好ましくない状況になってしまうの。男の子の身体を持った男の子が女の子の格好をしてたら変だけど、女の子の身体を持った男の子が女の子の格好をしても変ではないでしょう? 誰も中身が男の子とは解らないんだから」
「……う、ん……」
 凛太郎は多少言いくるめられた感じがしたけれど、自分を自分として愛してくれることは嬉しかった。ただどっちでもいいのよ的な感は引っかかったが。
「男に戻るまでの我慢ってことだね」
 凛太郎は強がってはみたものの、心の奥底では戻れない事はある程度覚悟し始めていたし、正直言って女の子の身体を持ち、女の子の格好をしながら、自分は男だと思い続けられないような気もしていた。
「じゃぁ、お母さん下にいるから。着替えたらご飯食べに降りていらっしゃい。解らなかったらいつでも呼んでね」
 微笑ながら、それだけ言うと母は部屋を出、階下へ降りていった。

 * * * * * * * * *

「ふぅ、着てみよっか……」
 覚悟を決めてたんすからブラジャーとショーツを取り出しベッドの上に置いた。鏡の前に立つと、凛太郎は、パジャマを脱ぎだした。形のいい胸が露わになった自分が見える。両腕で胸を抱えるようにしてみる。むにっと乳房が歪んだ。
「やっぱり何回見ても、えっちぃ」
 顔から胸まで上気させながら、ベッドの上からブラジャーを手に取り、教えて貰ったとおり着け始めた。肩紐を通し、乳房をカップにおさめ、腕を後ろに回しホックをとめようとした。着けようとしたが、感覚がつかめずどこに嵌めていいのかわからない。苦心惨憺2・3回の空振りの後ようやくブラジャーが着けられた。
「あぁ、なんだかなぁ」
 ぶつぶつ言いながら鏡に映った自分を見ると満更悪くない。胸元を見るとちょっと胸が大きくなっている気がした。ちゃんとサイズを合せてから購入したのだから当たり前だが、圧迫されるような感じもなく着心地は良かった。ただ、ちょっと暑いかも、と感じたが。
 ショーツを手に取って広げてみた。ちょっと小さい海パンに見える。凛太郎は右手にショーツを持ち、トランクスを下げた。鏡は見ないようにした。鏡を見たら……変に興奮してまたひとりえっちしてしまいそうだったから。
 右足からショーツに通し、左足を通し、そのままショーツを引き上げる。するっとした感触が心地よかった。それまでのトランクスとは違い面で圧迫するので、腰周りが引き締まるようだった。おちんちんがあった時には、恥骨に布地が当たることはなかったが、今恥骨に布が当たる感触は凛太郎に少なからず新鮮さを与えた。
 下着を着け終わって鏡を見ると、下着だけしか身に纏っていない少女がいた。浴室で見た全裸姿もエロティックだったが、下着姿もまたエロティックに映った。
 両腕で肩を抱くように二の腕に触れてみると、吸い付くようなそれでいてすべるような、これまでの自分の肌とは比べ物にならない感触に、凛太郎は陶然としてしまう。
「あぁ、すっごい気持ちいい」
 手を胸元へ、そしてわき腹に這わせてみるとゾクゾクと快感が立ち上る。傷一つなく、ましてや肥厚してざらつくところはどこにもない。わき腹からお尻へ手を移動させると、心が蕩けるような感じがした。凛太郎にはこの感触が女の子の肌がもたらすものなのか、それとも自分の新しい肌だから生まれてくるものなのかわからなかった。
(もし、このままずっと女の子だったら、この肌は一生僕のものなんだ……。男に戻ったら、汚い肌に戻っちゃうんだ……)
 全身に這い回らせた自分の手から伝わる気持ちのいい肌の感触に酔いながら、今のこの肌の感触を持つ女の子の姿と、以前の肌を天秤にかけ始めていた。
 僕は僕だ、と自分さえ見失わなければ、この綺麗で触り心地のよい肌はいつまでも自分のものとなる、それなら男であろうと女であろうとどちらでもいいんじゃないか? とそんな風に思い始めてしまっていた。凛太郎は鏡を見直し、目の前の少女はやはり自分なんだと受け入れ始めていた。
「えっちくて、綺麗な肌。なんか可愛いかも……」
 凛太郎は、鏡の前で身体中を触りながら、正面を向いたり、横を向いたり、後姿を映したりし、しばし自分の肌の感触と鏡に映る自分の姿に魅入っていた。
「凛ちゃーん? 着替え終わった?」
 階下から聞こえた母の声で凛太郎は我に返ると、急いでTシャツを着、カーゴパンツを履き、ジップパーカを被り、階下へ降りると母は朝食の用意を終えダイニングの椅子に腰掛けていた。
(お母さんの肌もあんなに気持ちいいのかな……?)
 自室で耽ってしまった、まるで自慰のような行為を母の肌でしたらどうだろうと、母の顔を見るなりそんなことを考えてしまった。凛太郎は慌てて視線を外しつつ、母に尋ねてみた。
「どぉ? おかしくない?」
「ん、大丈夫。ちゃんと可愛く着れてる」
 凛太郎はちょっと赤くなると、そのままテーブルについた。朝食はご飯、大根のお味噌汁、塩鮭の切り身、豆腐、サラダだった。
「「いただきます」」
 朝食を半分まで食べたとき、凛太郎が切り出した。
「今日ね、修ちゃんに話そうと思うんだけど」
「……お母さんは賛成。あの子ならわかってくれるわよ、きっと」
「うん、僕もそう思う。でも、ちょっと不安もあるんだよ」
「大丈夫、凛ちゃんが選んだ友達でしょう? 信じないでどうするの」
 凛太郎はそうだよね、と答えながら次第に鼓動が早くなるのを感じた。心臓が早く動くにつれ、胃もきゅぅっと小さくなった気がする。
(う、なんか緊張してきた。おなか一杯になってきちゃったな)
 なんとか朝食を食べ終えた凛太郎は、自室に戻り携帯電話を持ちながら室内をうろうろしていた。
「なんてメールしよう……話があるからきて、でいいかな」
 意を決してメールしようとしたその時、携帯電話が震えた。修一からだった。
『暇? これから行くけどいいか?』
『いいよ 話あるし』
 多少拍子抜けした凛太郎だったが、渡りに船と返信した
「うー、なんかまた緊張してきた」
 以前であれば、緊張したり困ったときなど、じっとりと汗が出て痒くなったりしていたが、新しい肌にはそれがなかった。しかし凛太郎は、これから来る修一の事に意識が行っていた為か、その事に気づかなかった。
 そして胃がぐるぐる回っている感覚を覚えながら、階下の母に修一がこれから来ることを伝えに行った。

 * * * * * * * * *

「よっしゃー、気合入れてくぞお」
 朝からハイテンションだった修一は、凛太郎のメールで益々その度合いを増していた。別に凛太郎と今日会う約束はしていなかったが、修一言うところの「運命の美少女」に会うべく既に着替えも済ませ準備万端整っていた。
「笑ぃ、どうだ?」
「どうって、何が」
 朝からうろうろそわそわしている兄・修一に、うざい、と思い笑は顔も見ずに答える。
「かっこだよ。さわやかな剣道少年に見えるだろ?」
「さわやかかどうかは別にして、むさい剣道少年には見えないよね。……なんでネクタイしてんの?」
 実際、笑はブルーのシャツを腕まくりし、ベージュのチノパンの出で立ちは兄にしては上出来だと思った。普段はめんどくさいという理由で、どこに行くにもGパンにTシャツかトレーナーだったのだから。それより笑は黄色のネクタイを締めているセンスを問いただしたかった。
「ネクタイはいるだろ普通。初めましてなんだからきちっとしたかっこで会えば、好感度もうなぎのぼりだろ。ガムもブレスケアも買ったしな」
 修一の計画では、
  1.今日紹介される(リンタは俺をいい奴とフォロー)
  2.自分を見てかっこいいと感じる
  3.好感度アップ
  4.話が盛り上がってそのままデートへ(仕方ないからリンタも連れて)
  5.もっと盛り上がって帰り際告る
  6.上手くいったら初ちゅう(リンタはその前に帰す)
というルートが出来上がっていた。
「あのさ」
 笑は修一の計画の全容がなんとなく解り、わが兄ながらもなんてお馬鹿、と唖然としつつ言葉を続けた。
「どこまでいこうとしてるか知んないけど、最初からガッついたら女の子ドン引きするよ。今日は『話ができる様になる』程度に思ってたら? 大体昨日帰っちゃったかも知れないし」
「大丈夫だって、今日も必ずあのコいるって。今日の俺の勘はすんげー冴えてるし。んじゃもう行くわ」
 手厳しい妹の話を聞き流し、修一はあくまでも強気だった。猛烈な勢いで自転車をこぐ修一に、笑は「ストーカーになったら縁きるからね〜」と見送った。

 * * * * * * * * *

「千鶴さん、おはようございます!」
 居間にいる凛太郎の耳に、元気一杯な修一の声が聞こえる。
「はい、おはよう。凛太郎、居間にいるからね」
「おじゃましまっす。あ、昨日駅前のデパートで見かけましたよ」
(えぇっ? もしかして修ちゃんに見られてた?)
 予想外の展開に凛太郎は激しく動揺した。
「あら、なら声かけてくれればよかったのに」
(なんだよ、あの時会ってたらすごい恥ずかしかったじゃないか。何でそんな事言ってんの?)
 母の物言いに多少凛太郎はムッとしてしまった。
 玄関を上がり、廊下を抜けてくる気配がした。居間のドアを開け、母を先頭に修一も入ってきた。凛太郎は一瞬目を伏せ、そしてゆっくりと修一を見た。
 凛太郎の目に映った修一は、少し顔を赤らめこれまで見たこともない表情だった。
(う、もしかしてなんか怒ってる?)
 胃がぎゅっとつぶされるような感覚が、凛太郎を襲っていた。何かしゃべらなきゃ、と思うほどに言葉が出てこない。凛太郎と修一はお互い見詰め合っていた。ほんの一瞬だったろうが、凛太郎には長い時間に思われた。
「あ、と、ごめん、修ちゃんどうぞ、座ってよ」
 凛太郎はやっと声を絞り出し、修一に自分の対面のソファに座ることを促した。修一もようやく動き出し、そろそろとソファに腰掛けた。
(ん? 修ちゃんニヤケてる?)
 座る直前、修一が前かがみになった時、表情が崩れた気がした。
「ぼぼくの名前知ってた? あ、リンタに聞いた? いやぁうれしいなぁ」
 まっすぐ凛太郎を見ながら修一は言った。凛太郎は修一の話し方に奇異な感じを持った。日頃修一の一人称は「俺」だ。凛太郎に対して「ぼく」なんて使ったことがなかったから。
(え? 「ぼく」? 「リンタに聞いた?」ってなに? 「うれしい」って何が?)
「凛ちゃん、しっかり話をしないと」
 なんかとんでもない勘違いをしてるんじゃないか? と考え始め、その答えが導き出される前に、いつの間にか凛太郎の横に座った母が話をするよう促した。
 凛ちゃんと呼ばれた少女と千鶴を交互に見ながら、修一がちょっと妙な顔をした。
「修ちゃん、こんなんなっちゃって解らないだろうけど、僕だよ、凛太郎」
 少しソファから上体を前に乗り出し、うっすら上気した顔をまっすぐ修一に向けた少女が静かにゆっくりと言った。
 言葉の意味が解りません、と言いたげな表情を見せた修一に、凛太郎はもう一度言った。
「女の子の身体になっちゃったけど、修ちゃんの前にいるのは凛太郎だよ」
 凛太郎のイメージの中で、フリーズして何の反応も見せない修一が次第に遠くなっていくような気がした。
(こんな目の前にいるのに……どんどん離れてるみたいな…………修ちゃんなんか言ってよ。あぁ部屋がぐるぐる回ってるみたい……)
 何も言ってくれない友人に、やっぱり嫌われた? と、次第に目頭が熱くなってきた。昨日は泣かなかったのにな、と余計な事が頭に浮かんだ。凛太郎の大きな目には涙が湛えられ、辛うじて睫で留まっている状態だった。
「リンタ? だよな? そうだよな。突然女の子になったって言うからびっくりして凍っちまったよ。なんだよ、変なものでも喰ったんか?」
「修ちゃん……!」
 凛太郎は感極まったのか、大粒の涙を流していた。
(あー、泣き顔もきれいだな……)
 流れ出る涙を見て、修一は自分で言った言葉と全く関係のない事を考えていた。目の前でぽろぽろ涙を流している美少女が、友人であった事実は正直言って信じられない思いだった。ただ今しがた言ったことも本心ではあった。
(俺にドッキリなんて仕掛けても仕方がないし、千鶴さんも目の前で座って見守っている。ましてやリンタは俺に嘘なんかついたことない。やっぱこの娘、リンタなんだ……。あー、すんげーかわいいなぁ……まいったなぁ……やっべぇよなぁ)
 修一の心中をよそに、凛太郎の心は嬉しさで一杯だった。不安はあったけれど、話しをして良かった、外見など気にせず自分を自分だと認めてくれた友人を持てた事に誇らしさも感じていた。
「……修ちゃん……ありがと……」
 小声だったけれど、しっかりと伝わるように、凛太郎はその言葉を口にしていた。
 千鶴は、修一が理解を示したことに少なからず驚いていた。凛太郎の状況を理解するなら、経緯や説明を必要とするだろうと思っていた。なれなれしく自分の名を呼ぶ少年に、若干の疎ましさを感じたこともあったが、我が子をこれ程信用してくれる修一に心の中で感謝した。ただ、じっと凛太郎の顔を見つめる目に宿った光にちょっと心配もあったが。
「修一君、信じてくれてありがとう。凛太郎、こんな調子だから私から順を追って話すわね」
 千鶴はまだ涙を流している凛太郎を優しく抱き寄せながら、事の経緯を話し始めた。修一はと言えば、時折凛太郎に目を移しながら黙って話を聞いていた。

 * * * * * * * * *

「じゃあ、今のところ元には戻らないんですか」
 大筋を理解した修一がいつになく真面目な顔で口を挟んだ。傍で聞いていた凛太郎の身体がビクっと動く。それを気にした修一が凛太郎に目を向けると、前かがみになった凛太郎の胸元から、白い肌のふくよかな胸が覗けた。慌てて視線を外し、千鶴の方へ転じた。
「学校、どうするんです? リンタ、辞めちゃうんですか? クラス違いますけど、力になれますよ、俺」
 修一はこの時、下心もなく本心から凛太郎の力になりたいと思っていた。一目惚れの相手ではあったけれども。修一からすると、肌のことで他人との接触を極力避けたがる凛太郎が、女性化したことで益々内に篭るのではないか、そんな危惧もあった。
「学校には行かせるし、転校もしないの。これは凛太郎が決めたんだけど」
 意外とも言える千鶴の一言に、修一は改めて凛太郎を見つめた。その瞳に答えるように凛太郎が口を開く。
「……やな事あるのは覚悟してるんだ。今度は肌じゃなくて身体全部だから隠せないし。でもここを離れたら戻れるものも戻れなくなっちゃうって思って……」
「そっか。なら俺を頼れよな。リンタみたいにちっこいのは俺でも守れちゃうからなぁ」
「な、なんだよ、ちっこいのって。そんな事言う奴には何にも頼んないよ」
 凛太郎は修一と軽口を言い合いつつ、へへへ、と笑いあった。ここ数日で久しぶりに笑った気がして、少し心が軽くなった気がした。
(男が男を守るってなんだか変ね。あら? 今は女の子だからいいのかしら?)
 千鶴はと言えば、妙なところに突っ込みを入れていた。

 * * * * * * * * *

「それじゃぁ、そろそろ帰ります。千鶴さん、お邪魔しました。リンタ、また明日な」
 話を終え、昼食まで戴いた修一は、凛太郎と明日から登下校一緒に行くことを取り決めた。その後はくだらない話やゲームに興じお暇を言う頃には外は暗くなり始めていた。
 凛太郎は玄関を出ようとする修一に走りより、両手で修一の左手を掴み胸が付きそうなくらい近づいて、修一の顔を見上げた。
「修ちゃん、今日はほんとにありがとう。これから迷惑かけちゃうかも知れないけど、ずっと友達でいてよ」
 修一は凛太郎の行動に驚いてしまった。中学から友達となったけれど、肌のコンプレックスのせいか、凛太郎が自分から他人に触れることは今まで見たことがなかった。触れられるのも嫌いなのは知っていたから、修一でさえも凛太郎に触れることは戸惑っていた。それに中身が凛太郎だと知ってはいても、女の子がこんな胸がくっつきそうな距離に来るなんて、これまでの修一の人生では初めての経験だ。しかもそれが一目惚れの美少女だったから、尚更びっくりしていた。
 上から見る凛太郎の髪は艶やかでサラサラしているようだった。シャンプーなのかリンスなのかいい香りがした。修一を見上げる凛太郎の瞳は、潤んでいるように見える。男の凛太郎の時は所々赤く斑だった頬は、肌が真っ白でそれでいて少し朱に染まっていた。白く美しい肌に触れてみたい衝動を振り払いつつもっと下を見れば、盛り上がった胸が見えた。自然と顔が火照っているのが解った。
 修一は慌ててしゃべり出した。
「お前はお前、俺は俺、変わらないしずっと友達だって。唯一変わったとしたら俺が男でお前が女ってことだけだよ」
 修一は一気に話してから、しまった、という顔を見せた。
 何気なく言ってしまったが、自分が凛太郎とデパート前で見た美少女とを切り離して見られない事がばれるかと思った。話を聞いて凛太郎であることは理解していたが、修一の心の中には「一目惚れした美少女」が既に居座っていた。その美少女が目の前で手を握っている、自分を頼りにしている、例え中身が友人であり男の凛太郎だとしても、恋心を全て消し去る事は出来なかった。
 修一が凛太郎を見ると、「ずっと友達」といって喜んでいたが、千鶴をちらっと見やると、じっと何かを探るように修一を見ているのを感じた。
「お昼ご馳走様でしたぁ」
 慌てて自転車に飛び乗り、逃げるように帰って行った。
「修ちゃんに話してよかったよ。やっぱり信じてくれたし、友達でいてくれた」
 のほほんとしている凛太郎をよそに、千鶴は別の事を考えていた。
「女の子として見ちゃったのかしら……。うーん……」
 自転車で帰る修一を見て、千鶴は呟いた。

 * * * * * * * * *

 帰ってきた修一の様子は、昨日にも増して変だった。家を出て行った時のテンションは既になく、「はぁ」だの「ふぅ」だの「こんなのってねーよ……」と呟きながらすぐさま自室に引き篭ってしまった。
(あーあ、先走りし過ぎて嫌われたんだ。だから言ったのに)
 笑は兄の様子から、振られたんだと判断した。実際には振られる以前の話だったのだが、笑にはそれを知る術は今はない。
(しょうがないな、話だけでも聞いてあげようか)
 つくづく自分は良い妹だ、と自己満足しながら兄の部屋へ行った。
「お兄ちゃん、いい?」
「ええみぃぃ、運命って残酷だぁあ」
 声をかけるといきなりドアが開き、中から情けない修一の顔がのぞいた。笑は修一を押し戻し部屋に入るなり切り出した。
「なぁに? やっぱり押しすぎて嫌われちゃったんでしょう。だから言ったじゃん。お友達になるつもりで行けって」
「違うんだ。あれはリンタだったんだ。リンタ女の子になっちゃてんだよ」
「…………………………え?」
「だから、俺が見た運命感じちゃった女の子はリンタだったんだよ」
「……凛ちゃんて女装趣味あったんだ……」
「『凛さん』。女装じゃなくって女の子になってたんだってば」
 笑は話を聞いているうちに益々混乱してきた。可愛い顔をしてた凛太郎が女装でもしてたならまだ理解できるかもしれない。しかし女の子になったとはどういう意味なのか。性転換でもしたんだろうか。そんな疑問が生じた。
「女の子になっちゃったって……しゅ、手術でもしたの?」
「いんや、なんか騙されて買った入浴剤使ったら女の子になってたんだと」
「うそだ〜、そんなのでなるわけないじゃん。誤魔化さなくてもいいよ、振られたんでしょ、そのコに」
 ここまで聞いてやはり信じられなかった笑は、それが正解とばかり笑い飛ばした。
「お前騙してどうすんだ。振られたら振られたって言うだろ。リンタは女の子になった。これが事実。俺はその女の子のリンタに恋しちゃったかも」
 修一は信じて貰えない事に少しムッとしながら、強い調子で言った。ついでに問題発言もさらりと言っていた。
 笑は兄の様子に嘘がない事は解ったが、しかしその事実は容易に受け入れ難いものだった。
「ほんとの女の子になっちゃったの?」
「だーかーらー、ほんとになっちゃってるんだって。顔つきも女っぽいし、声も可愛らしいし、下は知らんけど襟元からおっぱい少し見えたし」
「……」
「そんなことより問題は、あのコがリンタで、俺話聞いてるうちに可哀想っていうか守ってやりたいっていうか、あのコはリンタなんだ俺ってリンタ好きなんか? って思って見てたら、どんどんそういう気持ちが大きくなってきて、でもリンタ身体女の子だけど男だし俺も男だし、ホモなんか? って思ってみたり、帰り際に手握られたら、もう、やっべぇどうしようって感じになってさ、すごい手の気持ちいい感触が残ってんだけど、俺どうしたら良いと思う? 笑?」
「どうしたらって……いきなり女の子になっちゃったらショックだろうし、それで男から告白なんかされちゃったら引篭もりになっちゃうよ。まして仲のいい友達だったら……」
「やっぱそうだよなぁ……。でもすんげーど真ん中ストライクなんだよなぁ」
「んな事言って、ヤリタイだけなんじゃないの?」
 図星を突かれたように、修一は真っ赤になりながら言い訳を考えていたが、結局言葉に詰まっていた。
「とにかく、そのケがない男の子に言っちゃだめだよ。言わないで守ってあげるのが男らしいと思います。はい、相談終わり」
「なんだそりゃ。相談じゃねーだろ、世間話だろ。まぁ、でも確かにその通りだよな……」
 そのまま椅子に腰掛けて思案しているように見える兄をほって、笑は部屋を出た。

 笑の中でモヤモヤが蟠っていた。いつの頃か、兄が連れてきた綺麗な少年。肉体馬鹿の兄と比べて、華奢なイメージだったが、なんとなく寂しげな表情は、笑の心をくすぐった。女の子と話すのが苦手なのか、何度家に来てもそっけない態度だった。後からアトピーで自分の肌を見られるのが嫌だと聞いたとき、年上ではあったが一言言ってやらないとすまない気持ちになった。励まして、少しでもその距離が近づけばと思った。
 その少年が少女に。正直言って信じられなかったし、信じたくなかった。自分の少年に対する気持ちが恋なのかは解らなかったけれど、少なくとも大切な人になりつつあった。それなのに。
 笑の心に漣が立っていた。

 * * * * * * * * *

 夕食後部屋に戻った凛太郎は、修一が帰り際言った言葉を思い出していた。
『唯一変わったとしたら俺が男でお前が女ってことだけだよ』
 どういう意味があったのか。耳にした時には気にも留めていなかった。「ずっと友達」でいられることの方が嬉しかったから。しかし時間が経ってみると何か意味深な気がしてならない。
(そう言えば今日最初に会ったときの様子が何か変だったな)
 凛太郎はその意味をよく考えてみた。昨日自分の姿を見られていた。メールで運命を見たと書いていた。今日会ったとき自分だと解っていなかった。それにあの服装は? 考えてみれば、いつもトレーナーとGパンで遊びに来ていた修一が、ちょっとお洒落してくるなんて初めてだった。
 運命っていうのは自分を見た事だったのだろうか。あんな格好で来るなんて、デートでも無ければ変だ。次第に考えがまとまり出した。
 凛太郎自身、この身体と姿は完璧に女の子だと認識していたし、他の誰が見てもそう思うだろうと思っていた。しかし男の時の面影は十分残していたし、自分を知っている近しい人が見れば当然凛太郎だと解ると考えていた。しかし実際には谷山は別人だと疑っていたようだった。だとすると、遠目から見たはずの修一は、当然女の子だと思ったんだろう。
 ましてや修一は千鶴の大ファンだ。似ている女の子がいたら当然気に入るだろう。となると。
(修ちゃんは僕の姿を見て運命を感じちゃって、今日の用事ってほんとは僕に会いに来たんじゃなくって、女の子の僕に会いに来たって事か?? じゃぁ、帰り際に言った言葉って……)
 確かに凛太郎は修一が好きだった。もちろん恋愛感情ではなく、自分が全く持っていなかった、凛太郎が考える男らしさを持っていたからだ。多少おちゃらけた性格でも、凛太郎に取っては憧れの対象でもあった。修一という人物は、他人を遠ざけ一人が多かった凛太郎にとって、そばにいてもいい唯一の人間だった。だから修一が他のクラスメイトと仲良くしている時は、軽い嫉妬を感じた事もあった。
 しかし、それはこどもっぽい独占欲であって、けして恋愛感情ではない。凛太郎もその辺りは自分の心理を冷静に見ていた。
(僕はホモじゃないし、修ちゃんもそのはずだけど。でも今女の子の身体だからなぁ。……修ちゃん、男の僕より女の僕の方がいいって事なんかな。両方僕だけど、何かやだなぁ。でも肌がきれいな方が人に好かれやすいんだな。やっぱり)
 明日から学校だと言うのに、凛太郎は夜更けまでそんな事ばかり考えていた。


【学校編】へ


inserted by FC2 system